産業廃棄物を捨てる業者だったら
あったッ!!
DC版『十一ぴきのネコ』の中で、紙芝居の必要性を出す理由!!
ドライヤーで髪乾かしながら、鏡見てたら突然思い付いた(笑)
この疑問は当初からあったンだけど、別のコト書いている内にいつの間にかスルーしてた(笑)
えっと、野良猫達は都会暮らし。んで、都会のどぶ川の魚は食い尽くしてしまったので今はいないと野良猫の誰かが云ってた筈。
生活用水で汚れまくってる都会の水に住む魚を食い尽くすほど喰っても大丈夫だったのに、田舎の水に住む魚は毒に汚染されてるってどういうことさ?
って【ひろろ】に云ったら。
「そりゃ、産業廃棄物は田舎に行くから」
都会のどぶ川に流れ着く頃には、その途中、産廃に汚されていない川の水と合流したり、浄水された水と合流したりして毒素も弱まってるってコトか?
ま、水の流れはともかく。
ここから、引っ張ってこれるっ!!
紙芝居屋に声掛けられたリストラ男を、産業廃棄物を田舎に運ぶ業者でそれに嫌気がさして、ダラダラ仕事してたら、リストラされたサラリーマンだとすれば!!
んで、んで。
紙芝居の中の『十一ぴきのネコ』を原作版と同じハッピー・エンドだとして。
んで、実際に展開された『十一ぴきのネコ』をサラリーマンの罪悪感からの夢オチだとする。
そうすりゃ、サラリーマンが紙芝居に関係なく毒と云っても筋が通るっ!!
んで、睡眠学習状態で本来の紙芝居も聞いていたであろうから、猫の最期が中途半端に倖せそうだったのも理解出来るぞっ。
あぁっ。
最初に、サラリーマンが産業廃棄物に関係する人物だと云ってくれてたら……。
この際、それに関係する弁護士とかそーゆー立場の人でもイイや。
うっ?
なんか鮮明になってきたぞ?
元・サラリーマンが突然『毒』と云い出したことに生じた違和感の理由。
紙芝居として始まった『十一ぴきのネコ』の終わりは、サラリーマンの夢に切り替わってるのに。
サラリーマンと汚染が結びついてないから、ナンでサラリーマンがあんな夢を見るのかが分かんなかったんだ。
サラリーマンが、産業廃棄物に関係する人物だったらあんな夢見る理由が引っ張ってこれる!!
ついでに猫達を被害者だけにした理由も何となく見えて来るぞ?
展開された『十一ぴきのネコ』はサラリーマンの罪悪感なんだから、野良猫は被害者の象徴なんだから当然の流れだ。
って。
ひとっことも、全ッ然そんな説明ないって。
アタシも強引だなぁ〜。
観た日から昨日で丁度一週間経つけれど。
寝ても覚めても回るは舞台のことばかり。ってか?
いや、ある意味凄い面白い作品だったんだなぁと思う。
解釈がかなり広がる(笑)
でもさー。
矢っ張り。
完成品が観たかったっす。
も1つ贅沢云うと。
初演版のラストを関俊彦と中尾隆聖で観てみたい。
共に旅をした仲間に殺されてしまう、にゃん太郎を。
殺されたにゃん太郎を連れ去る、にゃん十一を。
観てみたいとの思いが捨てられない。
DC版『十一ぴきのネコ』の中で、紙芝居の必要性を出す理由!!
ドライヤーで髪乾かしながら、鏡見てたら突然思い付いた(笑)
この疑問は当初からあったンだけど、別のコト書いている内にいつの間にかスルーしてた(笑)
えっと、野良猫達は都会暮らし。んで、都会のどぶ川の魚は食い尽くしてしまったので今はいないと野良猫の誰かが云ってた筈。
生活用水で汚れまくってる都会の水に住む魚を食い尽くすほど喰っても大丈夫だったのに、田舎の水に住む魚は毒に汚染されてるってどういうことさ?
って【ひろろ】に云ったら。
「そりゃ、産業廃棄物は田舎に行くから」
都会のどぶ川に流れ着く頃には、その途中、産廃に汚されていない川の水と合流したり、浄水された水と合流したりして毒素も弱まってるってコトか?
ま、水の流れはともかく。
ここから、引っ張ってこれるっ!!
紙芝居屋に声掛けられたリストラ男を、産業廃棄物を田舎に運ぶ業者でそれに嫌気がさして、ダラダラ仕事してたら、リストラされたサラリーマンだとすれば!!
んで、んで。
紙芝居の中の『十一ぴきのネコ』を原作版と同じハッピー・エンドだとして。
んで、実際に展開された『十一ぴきのネコ』をサラリーマンの罪悪感からの夢オチだとする。
そうすりゃ、サラリーマンが紙芝居に関係なく毒と云っても筋が通るっ!!
んで、睡眠学習状態で本来の紙芝居も聞いていたであろうから、猫の最期が中途半端に倖せそうだったのも理解出来るぞっ。
あぁっ。
最初に、サラリーマンが産業廃棄物に関係する人物だと云ってくれてたら……。
この際、それに関係する弁護士とかそーゆー立場の人でもイイや。
うっ?
なんか鮮明になってきたぞ?
元・サラリーマンが突然『毒』と云い出したことに生じた違和感の理由。
紙芝居として始まった『十一ぴきのネコ』の終わりは、サラリーマンの夢に切り替わってるのに。
サラリーマンと汚染が結びついてないから、ナンでサラリーマンがあんな夢を見るのかが分かんなかったんだ。
サラリーマンが、産業廃棄物に関係する人物だったらあんな夢見る理由が引っ張ってこれる!!
ついでに猫達を被害者だけにした理由も何となく見えて来るぞ?
展開された『十一ぴきのネコ』はサラリーマンの罪悪感なんだから、野良猫は被害者の象徴なんだから当然の流れだ。
って。
ひとっことも、全ッ然そんな説明ないって。
アタシも強引だなぁ〜。
観た日から昨日で丁度一週間経つけれど。
寝ても覚めても回るは舞台のことばかり。ってか?
いや、ある意味凄い面白い作品だったんだなぁと思う。
解釈がかなり広がる(笑)
でもさー。
矢っ張り。
完成品が観たかったっす。
も1つ贅沢云うと。
初演版のラストを関俊彦と中尾隆聖で観てみたい。
共に旅をした仲間に殺されてしまう、にゃん太郎を。
殺されたにゃん太郎を連れ去る、にゃん十一を。
観てみたいとの思いが捨てられない。
【ひろろ】の「十一ぴきのネコ」感想
【ひろろ】も「十一ぴきのネコ」の感想を書きたいと云い出して、書いたので、UP烈
因みに。
【ひろぽ】はG列13番。
【ひろろ】は当日捌きで買ったので、B列20番。
座席の差で、感想の差がどれだけでるか楽しみ!?
あんまし、かわんなかったらご愛敬(笑)
不完全燃焼だったと言うのが正直な感想です。
カーテンコールも手拍子をする手が上がってこなかった。
普段ならあのテンポの曲が入ったカーテンコールには意識しなくても自然に手拍子を始めているのに……。
何故なんだろうと【ひろろ】なりに考えてみた。
作品自体は面白かったのに今一つと思ってしまったのは、やはりDCに、役者 関俊彦に、井上ひさしの「十一ぴきのネコ」に期待を高く持ちすぎていたからかな。
客電が消えて始まるプロローグその後にあらためて入るにしては長目のオーバチュアで一歩引いて芝居を見始めることに(暗転中に見切れているムービングスポッットが首をふり続けているのが気になったせいでもあるのですが)
帽子を追いかけている関さんの芝居は、少し中途半端だったかな、【ひろろ】はあのシーンを、明るい性格のにゃん太郎も一人でいると寂しいので帽子とお話ししながら寂しさを紛らわしているように思えました。
であれば、関さんにはもっと緩急を付けた芝居をしてほしかった。
まず帽子を追いかけるところは精一杯笑顔で明るく、上手に去っていく帽子にかける言葉は空元気を感じさせて、一人になって背中と肩で寂しさを出し、下手から出てきた帽子には目一杯の嬉しさを出して、それだけに再び去っていきそうになる帽子を追って他のネコたちがいることに気がつく余裕もなく袖に突っ込んでいくにゃん太郎、といった流れがメリハリをつけて演じてもらえたら、もっと自然ににゃん太郎に感情移入できたと思うな。
それが出来る技量を持った役者さんだと思っているから。
無対象での芝居かどうかの判断に時間がかかってしまったことも、【ひろろ】が集中しにくかった理由の一つでした。
芝居の序盤はいつもどんな形式に作ってあるのかを探ってしまうんですが、今回は小道具を無対象で作っているにもかかわらず、最初に出てくる帽子は本物だったり、競馬新聞やハタキなどの持ち道具が目に付いてしまったり、巨大な注射器が出てきたりして、関さんの釣り竿を持ち出す頃まで、芝居全体を通して無対象で演じて行くのか、このワンシーンだけなのか判断に迷ってしまいました。
役の重さに比べて技量不足に感じられる役者さんも気になってしまった所です。
めんどくさそうに動くシーンではダラダラ動く演技をせずに本当にダラダラと動く。
これで重要度が高い役をやられていると、どうしても目に付いてしまいます。
力のある役者さんはきちんと演技をするからダラダラした動きも、それらしく見えるように計算しているからメリハリが出来るのに、ただダラダラ演じられると辛いです。
これをナチュラルな芝居をしていると勘違いしている役者さんなのか、純粋に技量不足なのかはわかりませんが、芝居に集中して見るには、辛かったかな。
細かいところを言えば他にも色々あったのですが、良い芝居だと感じつつも今一つ入り込めずに進行していきました、そして最大の不完全燃焼ポイントはラストにやってきました。
ネコ達が唄いながら死んでいくのですが、苦しんで逝く悲劇性を訴えたいのならばミザンスを少し変えて、ネコ達は下前で一匹、上奥で一匹とバラバラに死んでいってほしかったし、あのシーンにネコ達の救いを出すのであれば、中央に集まって死んでいくネコ達(にゃん太郎一人でも可)にもっと歌い上げてほしかった。
最後の選曲から行っても【ひろろ】は後者だと思っていたラストが、エピローグの紙芝居に持っていくためかもしれないのですが、どっちつかずの中途半端な形に待ってしまったのが残念です。
もちろん良いところもたくさんあり、見て良かったと思っているんですよ。
でもそういった感想は、色々なところで語り尽くされていくことの繰り返しになりそうなので、今回は【ひろろ】的に気になった所をまとめてみました。
以上。
【ひろろ】の感想でした。
因みに。
前も似たような質問があった気がするんですが……。
ま、いいや(笑)
えっと【ひろぽ】が退職するまで勤めてて、旦那の【ひろろ】が現在進行形で勤めている会社でやった仕事が、どんなもんか知りたいと云うのがありましたので。
ここからですv
因みに。
【ひろぽ】【ひろろ】の舞台照明サイト【ka-i-ka-n】はコチラv
因みに。
【ひろぽ】はG列13番。
【ひろろ】は当日捌きで買ったので、B列20番。
座席の差で、感想の差がどれだけでるか楽しみ!?
あんまし、かわんなかったらご愛敬(笑)
不完全燃焼だったと言うのが正直な感想です。
カーテンコールも手拍子をする手が上がってこなかった。
普段ならあのテンポの曲が入ったカーテンコールには意識しなくても自然に手拍子を始めているのに……。
何故なんだろうと【ひろろ】なりに考えてみた。
作品自体は面白かったのに今一つと思ってしまったのは、やはりDCに、役者 関俊彦に、井上ひさしの「十一ぴきのネコ」に期待を高く持ちすぎていたからかな。
客電が消えて始まるプロローグその後にあらためて入るにしては長目のオーバチュアで一歩引いて芝居を見始めることに(暗転中に見切れているムービングスポッットが首をふり続けているのが気になったせいでもあるのですが)
帽子を追いかけている関さんの芝居は、少し中途半端だったかな、【ひろろ】はあのシーンを、明るい性格のにゃん太郎も一人でいると寂しいので帽子とお話ししながら寂しさを紛らわしているように思えました。
であれば、関さんにはもっと緩急を付けた芝居をしてほしかった。
まず帽子を追いかけるところは精一杯笑顔で明るく、上手に去っていく帽子にかける言葉は空元気を感じさせて、一人になって背中と肩で寂しさを出し、下手から出てきた帽子には目一杯の嬉しさを出して、それだけに再び去っていきそうになる帽子を追って他のネコたちがいることに気がつく余裕もなく袖に突っ込んでいくにゃん太郎、といった流れがメリハリをつけて演じてもらえたら、もっと自然ににゃん太郎に感情移入できたと思うな。
それが出来る技量を持った役者さんだと思っているから。
無対象での芝居かどうかの判断に時間がかかってしまったことも、【ひろろ】が集中しにくかった理由の一つでした。
芝居の序盤はいつもどんな形式に作ってあるのかを探ってしまうんですが、今回は小道具を無対象で作っているにもかかわらず、最初に出てくる帽子は本物だったり、競馬新聞やハタキなどの持ち道具が目に付いてしまったり、巨大な注射器が出てきたりして、関さんの釣り竿を持ち出す頃まで、芝居全体を通して無対象で演じて行くのか、このワンシーンだけなのか判断に迷ってしまいました。
役の重さに比べて技量不足に感じられる役者さんも気になってしまった所です。
めんどくさそうに動くシーンではダラダラ動く演技をせずに本当にダラダラと動く。
これで重要度が高い役をやられていると、どうしても目に付いてしまいます。
力のある役者さんはきちんと演技をするからダラダラした動きも、それらしく見えるように計算しているからメリハリが出来るのに、ただダラダラ演じられると辛いです。
これをナチュラルな芝居をしていると勘違いしている役者さんなのか、純粋に技量不足なのかはわかりませんが、芝居に集中して見るには、辛かったかな。
細かいところを言えば他にも色々あったのですが、良い芝居だと感じつつも今一つ入り込めずに進行していきました、そして最大の不完全燃焼ポイントはラストにやってきました。
ネコ達が唄いながら死んでいくのですが、苦しんで逝く悲劇性を訴えたいのならばミザンスを少し変えて、ネコ達は下前で一匹、上奥で一匹とバラバラに死んでいってほしかったし、あのシーンにネコ達の救いを出すのであれば、中央に集まって死んでいくネコ達(にゃん太郎一人でも可)にもっと歌い上げてほしかった。
最後の選曲から行っても【ひろろ】は後者だと思っていたラストが、エピローグの紙芝居に持っていくためかもしれないのですが、どっちつかずの中途半端な形に待ってしまったのが残念です。
もちろん良いところもたくさんあり、見て良かったと思っているんですよ。
でもそういった感想は、色々なところで語り尽くされていくことの繰り返しになりそうなので、今回は【ひろろ】的に気になった所をまとめてみました。
以上。
【ひろろ】の感想でした。
因みに。
前も似たような質問があった気がするんですが……。
ま、いいや(笑)
えっと【ひろぽ】が退職するまで勤めてて、旦那の【ひろろ】が現在進行形で勤めている会社でやった仕事が、どんなもんか知りたいと云うのがありましたので。
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因みに。
【ひろぽ】【ひろろ】の舞台照明サイト【ka-i-ka-n】はコチラv
DC版は何故『毒』を消してしまったか?
ドラマティック・カンパニーの『十一ぴきのネコ』には『毒』がない。
昨日、【ひろろ】が旅から戻ってきて、明日まで自宅にいるのでじっくり話す時間が十二分にとれたので、再びDC版『十一ぴきのネコ』について語り合った。
ととっ。
その前に、ここで当ブログでの『十一ぴきのネコ』の表記について説明。
幾つかの書き方をしちゃっているようなので。
原作版『十一ぴきのネコ』=原作版
エコー初演版『十一ぴきのネコ』=初演版『十一ぴきのネコ』
こまつ座初演版『十一ぴきのネコ』=決定版『十一ぴきのネコ』
井上版『十一ぴきのネコ』=エコー版・こまつ座版の両方を指す
ここからが、本題。
【ひろろ】とダラダラ喋っていて、DC版の物足りなさは決定版を踏襲しているのに『毒』がないからではないか? という結論に新たに辿り着いた。
ここで云う井上の持つ『毒』とは、
初演版では繁栄の代償=心の歪みによる仲間殺し。
決定版では繁栄の代償=汚染による自業自得からの死。
である。
が、DC版は?
猫たちは、被害者でしかない。
本来ならば、人間が払わなければならない代償を猫に払わしてしまっているのである。
……。
と、今これを書いていて。
何気なく続けようとした自分の言葉に驚いた。
こう続けようとしたのである。
大量の猫の死によって、人間は汚染と云う名の『毒』の恐ろしさを知る。
そして、汚染の問題を考えることになる。
毒だ……。
物凄い毒だ。
猫は人間に殺された。
猫を殺した人間は、このままじゃいかん。
自分らは、猫たちのようにならないように環境問題に真剣に取り組もうっ!!
ですよ……?
ネコ……人間に利用されるだけされてポイッ!?
いや、まぁポイまではしてませんがね。
野良猫たちは人間の為に、人間に殺されたってコト!?
にゃん太郎やにゃん四郎の実験所送りの運命を辿りそうになった子なんて、実験所送りの方が倖せだったんじゃ……。
解剖ならきっと麻酔は掛けてもらえると思うんだけど……。
あっ駄目か?
病気にされちゃう子だったりしたら苦しいか……。
うぅ〜ん。
ま、いいや。
深く突っ込むの止めよ。
えぇと。
話を戻します。
何故、猫が人間に利用される羽目になるのか?
普通、環境問題を考えるときに『猫』の為だけに考えるでしょうか?
人間社会にかなり比重を置いて考えるのが一般的だと思うんですが……。
『殺してしまった『猫』に可哀想なことをした』という思いからだとしても。
もし。
もしも、本っ当にDC版の主題を環境問題にしているのであれば。
ものすごぉ〜く、ブラックな作品だったんですね……。
ま。
こんなブラックな作品にしようとした可能性は決して高くないと信じていますけど(笑)
問題の。
A.DC版は何故『毒』を消してしまったか?
Q.早い話が。『猫を悪者にしたくなかった』かな?
理由として、子供が観るからでしょうかねぇ。
他に理由が思い付かない……。
話の流れで盛り上がった、こんな『十一ぴきのネコ』が観たい。
DC版の流れできたとして。
驪 ハッピー・エンド版
都会に戻りたいグループは、にゃん太郎達の田舎もいいぜグループの制止を振り切り、都会に戻る。
都会に戻ったにゃん十一達は、残飯を漁ったりしながら楽ではないものの生き延びる。
田舎に残った、にゃん太郎達は毒に侵された魚を食べて死んでしまう。
にゃん十一は風の便りに、にゃん太郎達の最期を知り、都会はいいぜと歌う。
それぞれの場所で同じように聞いた都会戻り組猫たちの声が重なる。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ ど田舎なんぞ くそくらえ
に重なるように、田舎残留組の倖せそうなシルエット及びコーラス。
都会戻り組は、歌本来の調子で歌い続ける。
掛け合いが続き、田舎組の最終小節、歌詞終わりで田舎組やや早めのフェード・アウト。
田舎組が消えたことに気付かず、調子よく歌い続ける都会組。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ
で、にゃん十一は田舎組が消えたことに気付き、思い出と歌っていたコトに気付き、思い出を捨て明日を生きると、ラストの歌い上げ。
鍊ど田舎なんぞ くそくらえ
曲終わり、足取り軽くハケ暗転。
因みに、十一以外の都会戻り組猫は田舎組と一緒に消しちゃっていいかな?
最後は十一に持っていきたいっす。
麗 悲劇版 其の壱
都会戻りたいグループが戻ってきて、田舎組の死を知り歌に入るまでは同じ。
最後の掛け合いから変化。
田舎組最後のコーラスから、声に苦悶が混じる。
1匹倒れ、2匹倒れ……。
最後に残った関にゃん太郎が、恨みを全開にして。
鍊泉よ あなたは母親だ
はっと振り返る、にゃん十一。
倒れる仲間・苦悶の表情を見せ付けられ、愕然とし。
ゆったりと、再度歌い出す。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ
舞台正面に躰を戻しながら、嘲笑に近い調子で歌い上げ。
ピン残し。
鍊ど田舎なんぞ くそくらえっ!!
歌詞終わりカット・アウトッ!!
紙芝居をつけるならば。
関さんの元・サラリーマンに。
「私は……野良猫にされるのはゴメンです」
言い残し、ハケ。
紙芝居屋、残され肩すくめ、紙芝居を仕舞いながら反対袖に、十一ぴきのネコが旅に出た鍊と口ずさみながらハケ。フェード・アウト。
黎 悲劇版 其の弐
死を直前にした猫たち。
『こんど生まれてくるときはのレクイエム』を歌いながら苦悶し1匹、また1匹と逝く。
但し、歌詞を変更。
「水の綺麗な」であるとか「空気の綺麗な」であるとかの、要は汚染されていない場所に生まれてきたい。との歌。
んで、最後の1匹関にゃん太郎が
鍊汚れた地だけはごめんさ(つか、この類のこと)
と、歌い捨て大きな痙攣一つ。
倒れ伏して。
ふと気付けば、舞台前ににゃん作老人の姿。(にゃん作老人は留守番とする)
旅に出た若猫たちの最期をなんとはなしに、感じ取り。
鍊 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが旅に出た
と、悟ったように口ずさむ。(暗い明るさでも可)
この歌の前に、にゃん作老人に。
「さぁ。次の猫たちは? 」的なことを云わしても可。
力 ↑のハッピー・エンド版
死を直前にした猫たち。
『こんど生まれてくるときはのレクイエム』を歌いながら1匹、また1匹と逝く。
但し、歌詞を各猫用に変更。
んで、最後の1匹関にゃん太郎に、倖せを前面に出しての歌い上げ。
笑みを残したまま倒れ伏す。
ふと気付けば、舞台前ににゃん作老人の姿。(にゃん作老人は留守番とする)
旅に出た若猫たちの最期をなんとはなしに、感じ取り。
鍊 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが旅に出た
と、悟ったように口ずさむ。
で、転調して。
にゃん作老人、黙る。
振り返れば、紗裏に明かり入る。
やや、優しい調子で十一ぴきのネコに続き歌わす。
んで。
再度、転調。
鍊北の空のお星様 〜
から。
本来の調子に戻り。
紗は上がり、フル・ライト。
にゃん作老人も十一ぴきのネコの輪に加わり、明るく、楽しく、歌い。
最後の。
鍊旅に出た
で、12匹の猫達は団体様で明るく、最後の歌いあげをすると。
にゃん作老人が、一人輪から外れる。
彼らを見守る眼差しのにゃん作老人。
何故か用意してある旅道具。
よくある、棒の先に布袋。
猫達がにゃん作老人に背を向け、新たに旅立とうとすると、にゃん作老人も旅道具を背に背負い。
猫達と反対の方向に、歩き出そうとして。
総員ストップモーション。
シルエット。
シルエット見せての、フェード・アウト。
一間おき。
タブロー。
暗転。
拍手の中、曲入り。
コールライト。
カーテンコール。
うひょ〜。
楽しかった烈
めっちゃくちゃたのしかったっすっ!!
色々脳内劇場で上演しながら、感動出来る自分が馬鹿だと思った(笑)
辻褄は無視(笑)
はぅ。
楽しかった。
なんか、今迄の不満が殆ど解消した気分。
脳内劇場安上がりでいいや(笑)
昨日、【ひろろ】が旅から戻ってきて、明日まで自宅にいるのでじっくり話す時間が十二分にとれたので、再びDC版『十一ぴきのネコ』について語り合った。
ととっ。
その前に、ここで当ブログでの『十一ぴきのネコ』の表記について説明。
幾つかの書き方をしちゃっているようなので。
原作版『十一ぴきのネコ』=原作版
エコー初演版『十一ぴきのネコ』=初演版『十一ぴきのネコ』
こまつ座初演版『十一ぴきのネコ』=決定版『十一ぴきのネコ』
井上版『十一ぴきのネコ』=エコー版・こまつ座版の両方を指す
ここからが、本題。
【ひろろ】とダラダラ喋っていて、DC版の物足りなさは決定版を踏襲しているのに『毒』がないからではないか? という結論に新たに辿り着いた。
ここで云う井上の持つ『毒』とは、
初演版では繁栄の代償=心の歪みによる仲間殺し。
決定版では繁栄の代償=汚染による自業自得からの死。
である。
が、DC版は?
猫たちは、被害者でしかない。
本来ならば、人間が払わなければならない代償を猫に払わしてしまっているのである。
……。
と、今これを書いていて。
何気なく続けようとした自分の言葉に驚いた。
こう続けようとしたのである。
大量の猫の死によって、人間は汚染と云う名の『毒』の恐ろしさを知る。
そして、汚染の問題を考えることになる。
毒だ……。
物凄い毒だ。
猫は人間に殺された。
猫を殺した人間は、このままじゃいかん。
自分らは、猫たちのようにならないように環境問題に真剣に取り組もうっ!!
ですよ……?
ネコ……人間に利用されるだけされてポイッ!?
いや、まぁポイまではしてませんがね。
野良猫たちは人間の為に、人間に殺されたってコト!?
にゃん太郎やにゃん四郎の実験所送りの運命を辿りそうになった子なんて、実験所送りの方が倖せだったんじゃ……。
解剖ならきっと麻酔は掛けてもらえると思うんだけど……。
あっ駄目か?
病気にされちゃう子だったりしたら苦しいか……。
うぅ〜ん。
ま、いいや。
深く突っ込むの止めよ。
えぇと。
話を戻します。
何故、猫が人間に利用される羽目になるのか?
普通、環境問題を考えるときに『猫』の為だけに考えるでしょうか?
人間社会にかなり比重を置いて考えるのが一般的だと思うんですが……。
『殺してしまった『猫』に可哀想なことをした』という思いからだとしても。
もし。
もしも、本っ当にDC版の主題を環境問題にしているのであれば。
ものすごぉ〜く、ブラックな作品だったんですね……。
ま。
こんなブラックな作品にしようとした可能性は決して高くないと信じていますけど(笑)
問題の。
A.DC版は何故『毒』を消してしまったか?
Q.早い話が。『猫を悪者にしたくなかった』かな?
理由として、子供が観るからでしょうかねぇ。
他に理由が思い付かない……。
話の流れで盛り上がった、こんな『十一ぴきのネコ』が観たい。
DC版の流れできたとして。
驪 ハッピー・エンド版
都会に戻りたいグループは、にゃん太郎達の田舎もいいぜグループの制止を振り切り、都会に戻る。
都会に戻ったにゃん十一達は、残飯を漁ったりしながら楽ではないものの生き延びる。
田舎に残った、にゃん太郎達は毒に侵された魚を食べて死んでしまう。
にゃん十一は風の便りに、にゃん太郎達の最期を知り、都会はいいぜと歌う。
それぞれの場所で同じように聞いた都会戻り組猫たちの声が重なる。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ ど田舎なんぞ くそくらえ
に重なるように、田舎残留組の倖せそうなシルエット及びコーラス。
都会戻り組は、歌本来の調子で歌い続ける。
掛け合いが続き、田舎組の最終小節、歌詞終わりで田舎組やや早めのフェード・アウト。
田舎組が消えたことに気付かず、調子よく歌い続ける都会組。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ
で、にゃん十一は田舎組が消えたことに気付き、思い出と歌っていたコトに気付き、思い出を捨て明日を生きると、ラストの歌い上げ。
鍊ど田舎なんぞ くそくらえ
曲終わり、足取り軽くハケ暗転。
因みに、十一以外の都会戻り組猫は田舎組と一緒に消しちゃっていいかな?
最後は十一に持っていきたいっす。
麗 悲劇版 其の壱
都会戻りたいグループが戻ってきて、田舎組の死を知り歌に入るまでは同じ。
最後の掛け合いから変化。
田舎組最後のコーラスから、声に苦悶が混じる。
1匹倒れ、2匹倒れ……。
最後に残った関にゃん太郎が、恨みを全開にして。
鍊泉よ あなたは母親だ
はっと振り返る、にゃん十一。
倒れる仲間・苦悶の表情を見せ付けられ、愕然とし。
ゆったりと、再度歌い出す。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ
舞台正面に躰を戻しながら、嘲笑に近い調子で歌い上げ。
ピン残し。
鍊ど田舎なんぞ くそくらえっ!!
歌詞終わりカット・アウトッ!!
紙芝居をつけるならば。
関さんの元・サラリーマンに。
「私は……野良猫にされるのはゴメンです」
言い残し、ハケ。
紙芝居屋、残され肩すくめ、紙芝居を仕舞いながら反対袖に、十一ぴきのネコが旅に出た鍊と口ずさみながらハケ。フェード・アウト。
黎 悲劇版 其の弐
死を直前にした猫たち。
『こんど生まれてくるときはのレクイエム』を歌いながら苦悶し1匹、また1匹と逝く。
但し、歌詞を変更。
「水の綺麗な」であるとか「空気の綺麗な」であるとかの、要は汚染されていない場所に生まれてきたい。との歌。
んで、最後の1匹関にゃん太郎が
鍊汚れた地だけはごめんさ(つか、この類のこと)
と、歌い捨て大きな痙攣一つ。
倒れ伏して。
ふと気付けば、舞台前ににゃん作老人の姿。(にゃん作老人は留守番とする)
旅に出た若猫たちの最期をなんとはなしに、感じ取り。
鍊 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが旅に出た
と、悟ったように口ずさむ。(暗い明るさでも可)
この歌の前に、にゃん作老人に。
「さぁ。次の猫たちは? 」的なことを云わしても可。
力 ↑のハッピー・エンド版
死を直前にした猫たち。
『こんど生まれてくるときはのレクイエム』を歌いながら1匹、また1匹と逝く。
但し、歌詞を各猫用に変更。
んで、最後の1匹関にゃん太郎に、倖せを前面に出しての歌い上げ。
笑みを残したまま倒れ伏す。
ふと気付けば、舞台前ににゃん作老人の姿。(にゃん作老人は留守番とする)
旅に出た若猫たちの最期をなんとはなしに、感じ取り。
鍊 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが旅に出た
と、悟ったように口ずさむ。
で、転調して。
にゃん作老人、黙る。
振り返れば、紗裏に明かり入る。
やや、優しい調子で十一ぴきのネコに続き歌わす。
んで。
再度、転調。
鍊北の空のお星様 〜
から。
本来の調子に戻り。
紗は上がり、フル・ライト。
にゃん作老人も十一ぴきのネコの輪に加わり、明るく、楽しく、歌い。
最後の。
鍊旅に出た
で、12匹の猫達は団体様で明るく、最後の歌いあげをすると。
にゃん作老人が、一人輪から外れる。
彼らを見守る眼差しのにゃん作老人。
何故か用意してある旅道具。
よくある、棒の先に布袋。
猫達がにゃん作老人に背を向け、新たに旅立とうとすると、にゃん作老人も旅道具を背に背負い。
猫達と反対の方向に、歩き出そうとして。
総員ストップモーション。
シルエット。
シルエット見せての、フェード・アウト。
一間おき。
タブロー。
暗転。
拍手の中、曲入り。
コールライト。
カーテンコール。
うひょ〜。
楽しかった烈
めっちゃくちゃたのしかったっすっ!!
色々脳内劇場で上演しながら、感動出来る自分が馬鹿だと思った(笑)
辻褄は無視(笑)
はぅ。
楽しかった。
なんか、今迄の不満が殆ど解消した気分。
脳内劇場安上がりでいいや(笑)
「十一ぴきのネコ」感想 最後に一言
思うのだが。
幕切れの猫たちの姿。
あれは、元々は魚を喰らって死んでしまった後、にゃん太郎もにゃん作老人も仲間と一緒に倖せそうにしている絵だったのではないか?
毒の魚を喰らってしまって、死んではしまったがもう独りぼっちじゃない。
仲間と一緒だものっ!!
ついでに、お腹が減る心配もなくなったしね(笑)
殺された猫ではなくて、死んでしまった猫の姿であったのではないか?
そうであって欲しいっ!!
と、願ってしまうのは意図して方向性を変えたんじゃなくて、色々分かり易くなるように付け足したら結果的に方向が変わっちゃっただけだと思い込みたいファン心理。
頑張って劇団側を擁護してみた。
だって〜。
関さん好きなんだモン……。
幕切れの猫たちの姿。
あれは、元々は魚を喰らって死んでしまった後、にゃん太郎もにゃん作老人も仲間と一緒に倖せそうにしている絵だったのではないか?
毒の魚を喰らってしまって、死んではしまったがもう独りぼっちじゃない。
仲間と一緒だものっ!!
ついでに、お腹が減る心配もなくなったしね(笑)
殺された猫ではなくて、死んでしまった猫の姿であったのではないか?
そうであって欲しいっ!!
と、願ってしまうのは意図して方向性を変えたんじゃなくて、色々分かり易くなるように付け足したら結果的に方向が変わっちゃっただけだと思い込みたいファン心理。
頑張って劇団側を擁護してみた。
だって〜。
関さん好きなんだモン……。
十一ぴきのネコ 萌えたんだよっ!!
えぇいっ!!
萌えを叫んでいないことに今更気付く。
よしっ!!
そんな訳で。
猫ミミ関さん漣 猫しっぽ関さん漣
可愛いっ漣
いやんv
めっちゃくちゃ可愛かった漣
それ以上に可愛かったのはコート姿のサラリーマンv
んで、歌。
『ネコの大漁唄い込み』。
特に、鍊オコサデ・オコサデー ホントダネ!!
の部分が、TDLの『魅惑のチキ・ルーム』の、チキの神様の起きる曲に似てません?
ドンドコ・ドンドコ・ピー・ピーって曲。
頭に残る〜。
残ると云えば、「大きな声では云えないけれど鍊」が気付くと頭を回ってる。
「大きな声では云えないけれど鍊」の部分だけが、エンドレスで(笑)
つか、『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』が好み漣
CDになっている曲としては、
驪風
関さんは外せない漣
麗ぼくの主人は〜6匹の物語〜
この分かり易い、掛け合い系の曲に弱い(笑)
鍊大きな声では云えないけれど
と、
鍊時はこの春金曜の ところは都会の停留所
と、
鍊ひたひたと運命の時がせまる
ひたひた ひたひた ひたひたひたと
が、抜けない。
この曲は明かり裂も好みで、ゾクゾクしました烈
フォローが物凄い気持ち良かったっ!!
黎都会はいいぜ
えっと、これはウエスト・サイド物語になってから。
なんのこっちゃ。
都会戻りたいぜグループと、田舎も良いぞグループの掛け合いからが好き漣
お気に入りはこの3曲。
魚の子守歌も入れて欲しかったんだけどなぁ……。
思わずおゼゼ陋の問題かと思ってしまった【ひろぽ】は汚い大人(笑)
んで、何故か
鍊十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが 旅に出た
が、【ひろぽ】が唄うと
鍊にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く……? ん?
に、なってる……。
何か変な風にインプットされたらしい……。
CD聴いてても
鍊にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く……? とか歌ってるし……。
うぅ〜ん?
ま、そんなコトもあるさっ。
関さんの『風』のフォロー裂も物凄く気持ちよかったんですよねぇ。
うっとりしちゃいました。
白い衣装なのに、膝ちょい上でしかもシャープで取るから最初は気持ち悪かったんだけど、途中から気になんなくなっちゃって。
ま、舞台奥に行って全身で押さえられるようになったってコトもあるんでしょうがね。
もぉ気持ちよくて気持ちよくて。
それもあって、『風』はお気に入りv
鍊手と手をこする あんよをはねる
の、可愛らしさと云ったらっ!!
倖せでした漣
実は、感想其の壱〜其の伍を書いているときは常にこのCDが流れていました。
んで、今も『風』がエンドレスで流れてる(笑)
寝るまでコレかな?
萌えを叫んでいないことに今更気付く。
よしっ!!
そんな訳で。
猫ミミ関さん漣 猫しっぽ関さん漣
可愛いっ漣
いやんv
めっちゃくちゃ可愛かった漣
それ以上に可愛かったのはコート姿のサラリーマンv
んで、歌。
『ネコの大漁唄い込み』。
特に、鍊オコサデ・オコサデー ホントダネ!!
の部分が、TDLの『魅惑のチキ・ルーム』の、チキの神様の起きる曲に似てません?
ドンドコ・ドンドコ・ピー・ピーって曲。
頭に残る〜。
残ると云えば、「大きな声では云えないけれど鍊」が気付くと頭を回ってる。
「大きな声では云えないけれど鍊」の部分だけが、エンドレスで(笑)
つか、『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』が好み漣
CDになっている曲としては、
驪風
関さんは外せない漣
麗ぼくの主人は〜6匹の物語〜
この分かり易い、掛け合い系の曲に弱い(笑)
鍊大きな声では云えないけれど
と、
鍊時はこの春金曜の ところは都会の停留所
と、
鍊ひたひたと運命の時がせまる
ひたひた ひたひた ひたひたひたと
が、抜けない。
この曲は明かり裂も好みで、ゾクゾクしました烈
フォローが物凄い気持ち良かったっ!!
黎都会はいいぜ
えっと、これはウエスト・サイド物語になってから。
なんのこっちゃ。
都会戻りたいぜグループと、田舎も良いぞグループの掛け合いからが好き漣
お気に入りはこの3曲。
魚の子守歌も入れて欲しかったんだけどなぁ……。
思わずおゼゼ陋の問題かと思ってしまった【ひろぽ】は汚い大人(笑)
んで、何故か
鍊十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが 旅に出た
が、【ひろぽ】が唄うと
鍊にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く……? ん?
に、なってる……。
何か変な風にインプットされたらしい……。
CD聴いてても
鍊にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く……? とか歌ってるし……。
うぅ〜ん?
ま、そんなコトもあるさっ。
関さんの『風』のフォロー裂も物凄く気持ちよかったんですよねぇ。
うっとりしちゃいました。
白い衣装なのに、膝ちょい上でしかもシャープで取るから最初は気持ち悪かったんだけど、途中から気になんなくなっちゃって。
ま、舞台奥に行って全身で押さえられるようになったってコトもあるんでしょうがね。
もぉ気持ちよくて気持ちよくて。
それもあって、『風』はお気に入りv
鍊手と手をこする あんよをはねる
の、可愛らしさと云ったらっ!!
倖せでした漣
実は、感想其の壱〜其の伍を書いているときは常にこのCDが流れていました。
んで、今も『風』がエンドレスで流れてる(笑)
寝るまでコレかな?
「十一ぴきのネコ」感想 其の伍
続いてしまいました。
「十一ぴきのネコ」感想です。
DC版「十一ぴきのネコ」の脚本に対する感想かな?
にゃん作老人の存在に違和感を感じ続けていた私は、オリジナルでの扱いを探しにネットを巡ってみました。
すると、簡単に答えが見つかりました。
オリジナルでは、にゃん作老人は湖の地図を渡すだけで旅には参加しないようです。
それをDC版では参加させてしまったから、しっくりこない感を覚えてしまった。
それだけでなく、にゃん太郎についても悪い方へ作用してしまったのではないか?
にゃん太郎の姿が見えてこなかった理由の一つとして、関俊彦の芝居が大人しかった所為ではないか? というのをあげています。
私は他に、にゃん作老人の存在感が引っ掛かっていたのですね。
作品中、にゃん十一がにゃん太郎のコトを「いつの間にか、リーダーのようになって」とにゃん太郎の立場を説明する場面があります。
確かに、リーダー扱いと云えばそうなんですが、その割りにリーダーとしての姿が弱く感じてしまっていたんです。
それを強く感じたのは、次の三箇所。
にゃん十一が魚に喰われ、助ける方法を考えているとき。
毒に苦しんでいる仲間達に飲ます水を探しに行って手ぶらで帰ってきたとき。
仲間達を看取るとき。
この三箇所で共通しているのが、にゃん作老人の存在。
中尾隆聖の存在感ではなくて、にゃん作老人の位置付けの問題。
にゃん十一を助ける方法を考えたのは、にゃん作老人。
苦しむ仲間を励ましていたのは、にゃん作老人。
最後の一人まで看取ったのは、にゃん作老人。
この三箇所において、にゃん太郎はNo.2になってしまっている。
名前数字組とにゃん作老人の間にもっと明確な一線が引かれているのであれば、オブザーバーとリーダーの関係と受け止めることも出来るが、にゃん作老人が入り込みすぎている。
もし、一線を引いたとしていも、芯に振るような役割を与えてしまい、台詞を与えてしまっていては同じコトになる可能性は十二分にあると想像できる。
また、せめてにゃん太郎のリーダー的な立場が確立されてからであれば、多少は違ってきたかもしれない。
が、にゃん太郎がリーダー的立場にあると思わせるようになるのは、にゃん作老人の登場とほぼ同時期ではないか?
にゃん太郎が餌探しに行っている間に、残った猫たち(既に仲間として行動していた十匹)は、にゃん太郎が戻ってくる前に自殺してしまおうとする。
(上の理由だけでは、理由に弱い気がしないでもないのだが)少なくとも私は、この段階では、まだ猫たちはにゃん太郎を仲間と認識していないように思われる。
流れの余所者的な感覚だったのではないか?
ま、余所者までは言い過ぎにしても、新しい仲間ではあってもリーダーではなかった。
個人的には、にゃん太郎が野良猫仲間の仲間と正式になったのは、ネコのそれぞれの事情を聞き、自分の事情を明らかにして以降だと踏んでいる。
そして、にゃん太郎にリーダー的役割を振り始めるのは、にゃん作老人を仲間達の元に連れてきて、大きな魚のいる湖目指し旅に出ようと旅に出るあたりからではないか?
で、ココから無理が生じてくる。
にゃん作老人を連れていってしまう為である。
本作品中で
……って、数字ネコ十一ぴきいましたよね? 欠番があって、にゃん作老人入れて十一だなんてオチなかったよな……。
あぁ。大丈夫でした。思わずパンフ確認しちゃったよ(笑)
そんなで、DC版では旅に出るのは十二匹であるのに、実際旅に出るのは十一ぴき。
ここで頭の中に? が飛び交う。
にゃん作老人の位置付けが分からなくなってしまうのである。
若い猫たちの道標的存在で、遠いところから彼らを見守るモノと思っていたのに何故か一緒に連れていってしまう。
で、彼が長老として君臨する形になってしまっている。
にゃん太郎は青年団の団長と云ったところか?
にゃん作老人を長老的存在とし、旅に連れていくことにしたのは、中尾隆聖・関俊彦の二本柱を立てたかったからだけではないのか? と思わざる得ない。
にゃん作老人のオリジナルでの位置を確認した今、その思いは一層強くなる。
また、にゃん作老人を連れて行くのなら、連れて行くなりにしっかりと本を書くべきだったのではないか?
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更されてしまっていたから、にゃん太郎の姿がぼやけ、にゃん作老人の存在に悩まされる羽目になったのではなかろうか?
この、『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』は幕切れの悪さにも作用してしまっているように思える。
DC版は決定版「十一ぴきのネコ」を踏襲しているようであるから、魚の毒は繁栄の裏に隠された黒い部分(或いは、繁栄の代償)の象徴である。
繁栄するには、綺麗事だけではすまない。
少々話が脱線するが、【ひろろ】から昨夜電話越しに興味深いことを聞いた。
井上ひさし氏は、『表裏源内蛙合戦』で平賀源内の死の後。
幕切れである歌を歌わせた。
それを要約すると。
綺麗に生きていきたいのなら、死。
上手に生きていたいのなら、綺麗に生きていくことを捨てろ。
決定版「十一ぴきのネコ」の結末によく似ていないか?
オリジナルでは、猫たちがネコの国を建国し、ネコの国に繁栄が訪れ、繁栄による毒で侵された魚を喰らい、その魚の持っている毒で死んでしまう。
これは、先程も書いたが『繁栄するには、綺麗事だけではすまない』というメッセージだと思われる。
と、すれば。
十一ぴきのネコが喰らったのは、繁栄の代償。
しかし、DC版の猫たちに繁栄の影はない。
強いて云えば、棚からぼた餅の代償か?
猫たちが捕らえ喰らった魚は毒で苦しみ、自殺したがっていた。
結果的には、魚の自殺幇助である。
生を求める魚を捕らえるよりは、死を臨む魚を捕らえる方が楽であろう。
楽をしてしまうと、自分も駄目になってしまいますよ。と云いたいのか?
ただ、この魚を捕らえる設定がオリジナルと同じであった場合、この説はかなり強引に思われる。
猫たちの死因が魚の毒によるモノではなく、魚の食べ過ぎであったとかであれば、『楽をしたことの代償』説をどうにか引っ張ってこれるか?
これも強引な気がしないでもないが(笑)
とにかく、DC版では「代償」の存在が消されているように思える。
代償の対象がないのだから、仕方がないか?
ここで、再び『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』の話に戻る。
(私は原作を読んではいないので、解説から内容を読み取るしかないのだが)原作は、魚を捕って腹を満たし、ネコの国を作って倖せとなりましたとさ。で終わるらしい。
決定版「十一ぴきのネコ」では、繁栄にはそれなりの代償があるのだと風刺して終わる。
ではDC版では?
『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』してしまっている為に、どっちつかずで終わる。
『仲間もでき、腹も満ちて倖せだ』のストレートなハッピー・エンド。
と。
『喰らった魚は毒に侵されてて、自分らもその毒で死んでしまいましたとさ』の喜劇(本来の井上版「十一ぴきのネコ」は社会風刺の効いた喜劇だと認識している)としての終わり。
この二つの異なる結末を、足して二で割ろうと(或いは、両方を追おうと)してしまったが為に、物語の方向を見失い結果として、中途半端な悲劇に仕上がってしまったかのように思えてならない。
この中途半端さを、『悲劇』にしてしまう理由が(再三書いてるが)幕切れの紙芝居である。
「これって、悲劇にだったのかっ!? 」と、叫ぶ要因になったのが元・サラリーマンの発した『毒』と云う単語と、「君が君の願う紙芝居のラストを書きなさい」的な紙芝居屋の言葉。
コレによって、「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」と云った印象を受けてしまう。
また、元・サラリーマンが猫たちを殺す原因となった『汚染』を人間の責任として書いてしまっているように思える。
実際、私は猫の死は人間の責任であるかのように思えた。
ココで猫が人間に対する恨み節を述べていたか? 述べてもいないのに、突然『毒』が出てくる理由がわからん。と書いているのが証拠である。
で、このまま行くと話が感想 其の参に戻ってしまうので、先行きます。
猫の死因を自らが招いた結果ではなく、第三者(人間)の手に因るものとしたから、風刺の効いた喜劇ではなく、『人間によって殺された、猫たちの悲劇』となってしまったのではないか?
また、ここで井上版「十一ぴきのネコ」が持つテーマさえも、すり替えが行われた気がしてならない。
紙芝居屋が男に白い画用紙を渡すことにより、
「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」
的な印象を受けると上で書いた。
この事によって、本来ならば「何かを得るというコトは、失うコトでもある」といった内容から、「可哀想な猫たちを増やさない為にも、環境問題に気を配りましょう」に突如としてすり替わっていく。
二重に、且つ強引に、主題をすり替えてしまうから、無理が生じてくるのも当然の結果だと思われる。
ここに生じた無理が、取って付けたような、居心地の悪さとなってしまうのではないか?
DC版の作りならば、無理に猫を殺ささずとも良かったのではないか?
原作を踏襲して、猫はお腹いっぱい。倖せいっぱいで暮らしましたとさ。
で、良かったのではないかと思う。
井上版を踏襲したいのであれば。
食べた魚は毒を持っていました。その毒で死んでしまうのですが、独りぼっちではなく、仲間と一緒に死ねたことは野良猫にとっては倖せだったのかも知れません。
といった方向に持っていけば良かったのではないだろうか?
猫の国の話を省いてしまっているのだから、魚の毒と汚染の関係も省いてしまい、たまたま毒を持っていた魚にしても不都合はないように思える。
『繁栄の代償』といった線は消えるが、『何かを得るというコトは、失うコトでもある』といった線は残していけると思うのだが。
幕開きの紙芝居がなければ、幕切れの紙芝居が必要なくなる。
幕切れの紙芝居がなければ、「「十一匹のネコ」は『汚染』によって(結果として)殺された猫たちの悲劇」というテーマのすり替えは起こらなかったのでは?
テーマのすり替えがなければ、ココまで不快感を感じるコトはなかったと思う。
結論。
紙芝居は要らない。
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけ変更はするな。
するなら、子供だましのような誤魔化しでなく、完成させるべき。
結局。
井上作品をやるなら、弄らずマンマで。
に辿り着く。
観劇から今日で3日目。
冷静になればなるほど、不快感が増して来るんです。
オリジナルの筋を知れば、知っただけ。
私はDCの「十一ぴきのネコ」をDC版と書いていますが、【ひろろ】は反対しています。
〜版とは、作品として完成してこそ使える言葉。
DCのは完成品とは思えない。
これに反論する言葉は、私にはありません。
同じように思うから。
私の頭を過ぎり、同様に【ひろろ】も浮かんだのは。
中尾隆聖・関俊彦人気に胡座をかいたか?
でした。
この作品の出来では、そう穿ちたくなる。
正直、DCとしての舞台はもういいかな? と思いました。
関さんの舞台は信頼の出来る劇団の客演だけの方がいいか? とか。
このクラスを見せられるのはちょっと勘弁だな。とも。
もし。
去年のラブラブ〜と今年のカリフォルニア〜を観ていなければ、DCの舞台は切ってしまったと思います。
内緒なんですが……今回の失敗の原因の一つに中尾隆聖・関俊彦の二本柱に頼りすぎたか? ってのも残ってます。
二本柱でいくなら、にゃん太郎を中尾隆聖。にゃん十一に関俊彦でいったらもう少し締まったかな?
とは、【ひろろ】の弁。
頑張りが空振りに終わっても、終わってもめげずに頑張る、にゃん太郎を可愛らしい空回り具合を期待できる隆聖さん。
結構、寂しン坊なのに虚勢を張っちゃう、にゃん十一を奥行き芝居を思いっ切り堪能できる関さん。
だそうで。
これは【ひろぽ】も観たいっ!!
ダラダラ書いてますが、最後にもう一言。
DCの「十一ぴきのネコ」にこれだけ不平不満を述べていながら、面白かったという感想も持っているのも本当です。
作品をぶつ切りにして、ストーリーを追わなければ面白かったんです。
必然的に歌・踊りのシーンが中心となってしまうんですが。
早い話が。
(当blogを読まれている方の多数が、ガンダムSEED DESTINYを知っているモノと想定して、話をしちゃいますが)
SEED DESTINY FINAL-PHASEを読んで頂けると分かり易いのですが、【ひろぽ】はSEED DESTINYを駄作としていません。
話の内容を捨てて、関さんの演られているレイ・ザ・バレルだけを追っていたからです。
えぇ。関レイさえよけりゃ合格だったんです。
それと同じで、ストーリーを捨ててしまえば楽しめました。
多少、関さんの芝居に物足りなさを感じることはあったモノの、観て良かったと思える程度には満足させて貰いました。
この作品なら全公演マチソワの長旅でも行くっ!! と云う発言は、この物語に関わりたいという思いからではなく単純にフォローに感動して自分もやりたいっ!! との思いからです。
以上、面白かったのは本当なんだよ〜と云う【ひろぽ】の自己弁護でした(笑)
「十一ぴきのネコ」感想です。
DC版「十一ぴきのネコ」の脚本に対する感想かな?
にゃん作老人の存在に違和感を感じ続けていた私は、オリジナルでの扱いを探しにネットを巡ってみました。
すると、簡単に答えが見つかりました。
オリジナルでは、にゃん作老人は湖の地図を渡すだけで旅には参加しないようです。
それをDC版では参加させてしまったから、しっくりこない感を覚えてしまった。
それだけでなく、にゃん太郎についても悪い方へ作用してしまったのではないか?
にゃん太郎の姿が見えてこなかった理由の一つとして、関俊彦の芝居が大人しかった所為ではないか? というのをあげています。
私は他に、にゃん作老人の存在感が引っ掛かっていたのですね。
作品中、にゃん十一がにゃん太郎のコトを「いつの間にか、リーダーのようになって」とにゃん太郎の立場を説明する場面があります。
確かに、リーダー扱いと云えばそうなんですが、その割りにリーダーとしての姿が弱く感じてしまっていたんです。
それを強く感じたのは、次の三箇所。
にゃん十一が魚に喰われ、助ける方法を考えているとき。
毒に苦しんでいる仲間達に飲ます水を探しに行って手ぶらで帰ってきたとき。
仲間達を看取るとき。
この三箇所で共通しているのが、にゃん作老人の存在。
中尾隆聖の存在感ではなくて、にゃん作老人の位置付けの問題。
にゃん十一を助ける方法を考えたのは、にゃん作老人。
苦しむ仲間を励ましていたのは、にゃん作老人。
最後の一人まで看取ったのは、にゃん作老人。
この三箇所において、にゃん太郎はNo.2になってしまっている。
名前数字組とにゃん作老人の間にもっと明確な一線が引かれているのであれば、オブザーバーとリーダーの関係と受け止めることも出来るが、にゃん作老人が入り込みすぎている。
もし、一線を引いたとしていも、芯に振るような役割を与えてしまい、台詞を与えてしまっていては同じコトになる可能性は十二分にあると想像できる。
また、せめてにゃん太郎のリーダー的な立場が確立されてからであれば、多少は違ってきたかもしれない。
が、にゃん太郎がリーダー的立場にあると思わせるようになるのは、にゃん作老人の登場とほぼ同時期ではないか?
にゃん太郎が餌探しに行っている間に、残った猫たち(既に仲間として行動していた十匹)は、にゃん太郎が戻ってくる前に自殺してしまおうとする。
(上の理由だけでは、理由に弱い気がしないでもないのだが)少なくとも私は、この段階では、まだ猫たちはにゃん太郎を仲間と認識していないように思われる。
流れの余所者的な感覚だったのではないか?
ま、余所者までは言い過ぎにしても、新しい仲間ではあってもリーダーではなかった。
個人的には、にゃん太郎が野良猫仲間の仲間と正式になったのは、ネコのそれぞれの事情を聞き、自分の事情を明らかにして以降だと踏んでいる。
そして、にゃん太郎にリーダー的役割を振り始めるのは、にゃん作老人を仲間達の元に連れてきて、大きな魚のいる湖目指し旅に出ようと旅に出るあたりからではないか?
で、ココから無理が生じてくる。
にゃん作老人を連れていってしまう為である。
本作品中で
十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコと、歌っているのに旅に出るのは十二匹。
十一ぴきのネコが 旅に出た
DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜より抜粋
……って、数字ネコ十一ぴきいましたよね? 欠番があって、にゃん作老人入れて十一だなんてオチなかったよな……。
あぁ。大丈夫でした。思わずパンフ確認しちゃったよ(笑)
そんなで、DC版では旅に出るのは十二匹であるのに、実際旅に出るのは十一ぴき。
ここで頭の中に? が飛び交う。
にゃん作老人の位置付けが分からなくなってしまうのである。
若い猫たちの道標的存在で、遠いところから彼らを見守るモノと思っていたのに何故か一緒に連れていってしまう。
で、彼が長老として君臨する形になってしまっている。
にゃん太郎は青年団の団長と云ったところか?
にゃん作老人を長老的存在とし、旅に連れていくことにしたのは、中尾隆聖・関俊彦の二本柱を立てたかったからだけではないのか? と思わざる得ない。
にゃん作老人のオリジナルでの位置を確認した今、その思いは一層強くなる。
また、にゃん作老人を連れて行くのなら、連れて行くなりにしっかりと本を書くべきだったのではないか?
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更されてしまっていたから、にゃん太郎の姿がぼやけ、にゃん作老人の存在に悩まされる羽目になったのではなかろうか?
この、『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』は幕切れの悪さにも作用してしまっているように思える。
DC版は決定版「十一ぴきのネコ」を踏襲しているようであるから、魚の毒は繁栄の裏に隠された黒い部分(或いは、繁栄の代償)の象徴である。
繁栄するには、綺麗事だけではすまない。
少々話が脱線するが、【ひろろ】から昨夜電話越しに興味深いことを聞いた。
井上ひさし氏は、『表裏源内蛙合戦』で平賀源内の死の後。
幕切れである歌を歌わせた。
それを要約すると。
綺麗に生きていきたいのなら、死。
上手に生きていたいのなら、綺麗に生きていくことを捨てろ。
決定版「十一ぴきのネコ」の結末によく似ていないか?
オリジナルでは、猫たちがネコの国を建国し、ネコの国に繁栄が訪れ、繁栄による毒で侵された魚を喰らい、その魚の持っている毒で死んでしまう。
これは、先程も書いたが『繁栄するには、綺麗事だけではすまない』というメッセージだと思われる。
と、すれば。
十一ぴきのネコが喰らったのは、繁栄の代償。
しかし、DC版の猫たちに繁栄の影はない。
強いて云えば、棚からぼた餅の代償か?
猫たちが捕らえ喰らった魚は毒で苦しみ、自殺したがっていた。
結果的には、魚の自殺幇助である。
生を求める魚を捕らえるよりは、死を臨む魚を捕らえる方が楽であろう。
楽をしてしまうと、自分も駄目になってしまいますよ。と云いたいのか?
ただ、この魚を捕らえる設定がオリジナルと同じであった場合、この説はかなり強引に思われる。
猫たちの死因が魚の毒によるモノではなく、魚の食べ過ぎであったとかであれば、『楽をしたことの代償』説をどうにか引っ張ってこれるか?
これも強引な気がしないでもないが(笑)
とにかく、DC版では「代償」の存在が消されているように思える。
代償の対象がないのだから、仕方がないか?
ここで、再び『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』の話に戻る。
(私は原作を読んではいないので、解説から内容を読み取るしかないのだが)原作は、魚を捕って腹を満たし、ネコの国を作って倖せとなりましたとさ。で終わるらしい。
決定版「十一ぴきのネコ」では、繁栄にはそれなりの代償があるのだと風刺して終わる。
ではDC版では?
『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』してしまっている為に、どっちつかずで終わる。
『仲間もでき、腹も満ちて倖せだ』のストレートなハッピー・エンド。
と。
『喰らった魚は毒に侵されてて、自分らもその毒で死んでしまいましたとさ』の喜劇(本来の井上版「十一ぴきのネコ」は社会風刺の効いた喜劇だと認識している)としての終わり。
この二つの異なる結末を、足して二で割ろうと(或いは、両方を追おうと)してしまったが為に、物語の方向を見失い結果として、中途半端な悲劇に仕上がってしまったかのように思えてならない。
この中途半端さを、『悲劇』にしてしまう理由が(再三書いてるが)幕切れの紙芝居である。
「これって、悲劇にだったのかっ!? 」と、叫ぶ要因になったのが元・サラリーマンの発した『毒』と云う単語と、「君が君の願う紙芝居のラストを書きなさい」的な紙芝居屋の言葉。
コレによって、「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」と云った印象を受けてしまう。
また、元・サラリーマンが猫たちを殺す原因となった『汚染』を人間の責任として書いてしまっているように思える。
実際、私は猫の死は人間の責任であるかのように思えた。
ココで猫が人間に対する恨み節を述べていたか? 述べてもいないのに、突然『毒』が出てくる理由がわからん。と書いているのが証拠である。
で、このまま行くと話が感想 其の参に戻ってしまうので、先行きます。
猫の死因を自らが招いた結果ではなく、第三者(人間)の手に因るものとしたから、風刺の効いた喜劇ではなく、『人間によって殺された、猫たちの悲劇』となってしまったのではないか?
また、ここで井上版「十一ぴきのネコ」が持つテーマさえも、すり替えが行われた気がしてならない。
紙芝居屋が男に白い画用紙を渡すことにより、
「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」
的な印象を受けると上で書いた。
この事によって、本来ならば「何かを得るというコトは、失うコトでもある」といった内容から、「可哀想な猫たちを増やさない為にも、環境問題に気を配りましょう」に突如としてすり替わっていく。
二重に、且つ強引に、主題をすり替えてしまうから、無理が生じてくるのも当然の結果だと思われる。
ここに生じた無理が、取って付けたような、居心地の悪さとなってしまうのではないか?
DC版の作りならば、無理に猫を殺ささずとも良かったのではないか?
原作を踏襲して、猫はお腹いっぱい。倖せいっぱいで暮らしましたとさ。
で、良かったのではないかと思う。
井上版を踏襲したいのであれば。
食べた魚は毒を持っていました。その毒で死んでしまうのですが、独りぼっちではなく、仲間と一緒に死ねたことは野良猫にとっては倖せだったのかも知れません。
といった方向に持っていけば良かったのではないだろうか?
猫の国の話を省いてしまっているのだから、魚の毒と汚染の関係も省いてしまい、たまたま毒を持っていた魚にしても不都合はないように思える。
『繁栄の代償』といった線は消えるが、『何かを得るというコトは、失うコトでもある』といった線は残していけると思うのだが。
幕開きの紙芝居がなければ、幕切れの紙芝居が必要なくなる。
幕切れの紙芝居がなければ、「「十一匹のネコ」は『汚染』によって(結果として)殺された猫たちの悲劇」というテーマのすり替えは起こらなかったのでは?
テーマのすり替えがなければ、ココまで不快感を感じるコトはなかったと思う。
結論。
紙芝居は要らない。
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけ変更はするな。
するなら、子供だましのような誤魔化しでなく、完成させるべき。
結局。
井上作品をやるなら、弄らずマンマで。
に辿り着く。
観劇から今日で3日目。
冷静になればなるほど、不快感が増して来るんです。
オリジナルの筋を知れば、知っただけ。
私はDCの「十一ぴきのネコ」をDC版と書いていますが、【ひろろ】は反対しています。
〜版とは、作品として完成してこそ使える言葉。
DCのは完成品とは思えない。
これに反論する言葉は、私にはありません。
同じように思うから。
私の頭を過ぎり、同様に【ひろろ】も浮かんだのは。
中尾隆聖・関俊彦人気に胡座をかいたか?
でした。
この作品の出来では、そう穿ちたくなる。
正直、DCとしての舞台はもういいかな? と思いました。
関さんの舞台は信頼の出来る劇団の客演だけの方がいいか? とか。
このクラスを見せられるのはちょっと勘弁だな。とも。
もし。
去年のラブラブ〜と今年のカリフォルニア〜を観ていなければ、DCの舞台は切ってしまったと思います。
内緒なんですが……今回の失敗の原因の一つに中尾隆聖・関俊彦の二本柱に頼りすぎたか? ってのも残ってます。
二本柱でいくなら、にゃん太郎を中尾隆聖。にゃん十一に関俊彦でいったらもう少し締まったかな?
とは、【ひろろ】の弁。
頑張りが空振りに終わっても、終わってもめげずに頑張る、にゃん太郎を可愛らしい空回り具合を期待できる隆聖さん。
結構、寂しン坊なのに虚勢を張っちゃう、にゃん十一を奥行き芝居を思いっ切り堪能できる関さん。
だそうで。
これは【ひろぽ】も観たいっ!!
ダラダラ書いてますが、最後にもう一言。
DCの「十一ぴきのネコ」にこれだけ不平不満を述べていながら、面白かったという感想も持っているのも本当です。
作品をぶつ切りにして、ストーリーを追わなければ面白かったんです。
必然的に歌・踊りのシーンが中心となってしまうんですが。
早い話が。
(当blogを読まれている方の多数が、ガンダムSEED DESTINYを知っているモノと想定して、話をしちゃいますが)
SEED DESTINY FINAL-PHASEを読んで頂けると分かり易いのですが、【ひろぽ】はSEED DESTINYを駄作としていません。
話の内容を捨てて、関さんの演られているレイ・ザ・バレルだけを追っていたからです。
えぇ。関レイさえよけりゃ合格だったんです。
それと同じで、ストーリーを捨ててしまえば楽しめました。
多少、関さんの芝居に物足りなさを感じることはあったモノの、観て良かったと思える程度には満足させて貰いました。
この作品なら全公演マチソワの長旅でも行くっ!! と云う発言は、この物語に関わりたいという思いからではなく単純にフォローに感動して自分もやりたいっ!! との思いからです。
以上、面白かったのは本当なんだよ〜と云う【ひろぽ】の自己弁護でした(笑)
「十一ぴきのネコ」感想 其の寿
だって、ほら。観光バスも4号車は寿号車になるから……。
やっとこさ、良かった感想だし……。
本日二度目の感想。
一番、感動したのは。
フォロー。
恐らく下ピンを出していた方だと思うのですが、本っ当に気持ちのいいタイミングでピンを出してくれる。
「そこでフルっ!! 」「ゆっくりアウト、スタンバイ。どうぞ」「カット・アウト、GO!! 」等々。
本っ当に、絶妙のタイミングで物凄い嬉しかったンです。
まるで【ひろぽ】自身が関さんをフォローしているかのような錯覚に陥ってしまうほど、自分が心の中で出しているQと重なって。
本っ当に、気持ちよかったです。
幕間休憩に入っての第一声が「ピンっ!! 凄い気持ちイイっ!! 」でした。
一服しながらは「この作品だったら、マチソワ二回公演の長旅でも行くっ!! 」と興奮して宣言してるし……。
と、明かりのコトをつらつら書いても……なので。
作品感想に行きます(笑)
柴本さんの振りは安心していられて好きですね。
群舞も定番と云ってしまえば、それまでですが、次はコウ来て欲しいっ!! という希望を殆ど叶えて貰っていると思います。
『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』であるとか、『こんど生まれてくるときはのレクイエム』。
初見でも流れの読めた『都会はいいぜ』(笑)
都会に戻りたいぜグループと、にゃん太郎を囲む女の子猫グループの立ち位置から、何となく想像できて、見事にその予感を裏切らずにやって下さいました。
ウエストサイド物語。
あの基本陣形が大好きです漣
これは、好みの問題かと思うんですが、【ひろぽ】は定番好きです。
特に基本形を全く無視した、奇を衒ったモノはあまり好みでないんです。
ハラハラ感に堪えられないと申しましょうか。
例えば小説。
推理小説ですら、犯人(出来ればトリックと動機も)知ってからでないと読み出せない。
そんなタイプなんで、『都会はいいぜ』の掛け合いも「よしっきたっ!! 」と嬉しく思いこそすれ、「定番だな……つまらん」とは思わないんですね。
矢っ張り綺麗ですもの。
他にも、一人歌い、二人歌い、それに続き、続きで総コーラスとなるパターン。
もう、完璧でした烈
えぇ。
大好物で御座います。
立て膝。振り返り。立ち上がり等々。
度々一人で「よしこいっ!! おしっきたっ!! 」と興奮しておりました(笑)
えと。
ちょっとシリアスな話。
関さんについてなんですが。
【ひろぽ】の感想。
「芝居が大人しいなぁ……。ちっと物足りん」
【ひろろ】の感想。
「芝居が小さい。カリフォルニア〜を観ていなかったら、舞台だと感覚が狂うのかと思ってしまう程」
で、二人で話し合っていくと。
アンサンブルのバランスに辿り着いた。
結論。
アンサンブルのバランスを取って大人しく抑えたか?
その線で振り返ると納得のいく、不満箇所多数。
そうすると、矢張り。
にゃん十一に中尾隆聖を持ってきて欲しかったと、強く思ってしまう。
今公演で、流石関俊彦と思ったのは、ココでも書いたが、にゃん十一が魚に喰われ、戻ってきてのシーンの後ろ姿。
「君に対して怒っているんだぞっ!!」って芝居をしているんだ。 って語る背中に関俊彦を見ました。
自殺しようとする猫たちを止める、にゃん太郎はもう一つ思い切って欲しかったと残念に思う。
云うまでもなく、合格点は取ってはいるのだが、関俊彦だと思うと、もうワンランク上を見せて欲しかったと、やや不満が残る。
同じように、幕開け(この際、紙芝居はおいといて)の帽子を追う場面。
ここも小さく見えてしまい、物足りない。
その為に、私は敢えてぼやかしたのだと解釈。
だが、願わくば折角の幕開け。
ドンッと大きく関俊彦を見せて欲しかったと、思う。
また、ココの関さんについて、【ひろろ】と話し合ってて限りなく低いが、ない訳じゃない可能性が一つ。
今回、児童を対象とした公演がある。
そして、元々「十一ぴきのネコ」は児童劇である(って、何処だかで見たんだモン……)。
それで、含みを持たせず比較的ストレートな表現でいこうとした。
……。
えぇ。
相当無理矢理なこじつけなのは、重々承知です……。
最初に云い出したときは、【ひろろ】に一蹴されましたモノ……。
「それは、ないだろ」
でも、色々考えていくうちに、限りなく低いがない訳じゃないかも……との結論に。
うぅ〜ん。
矢っ張りアンサンブルのバランスの線が濃いのかしらん?
隆聖さんと関さんの二人のシーンはいつもの私達が観たいと思っていた関俊彦なんですよね。
いらない、いらないと云っている紙芝居とか……。
結論。
関にゃん太郎中尾にゃん十一。
残りのネコ達を安心感のある役者にした同作品を観てみたい。
補足。
色々と書いていますが、面白かったンです。
また、【ひろぽ】はある意味DCの公演は初めてです。
去年は関さんと隆聖さんの二人舞台で、カリフォルニア〜は芯を張ってらしたのは安定した役者さんでしたから。
今回のはどちらかというと、若手公演を観に行く感覚で行ったことは確かです。
細かいことを書き出せば、また止まらなくなっちゃう(笑)
にゃん作老人が、にゃん十一に瓶詰めの手紙を書いているトコとか〜。
隆聖さん、関さん止まってるのが見えンのか!?
ルールでしょうがぁ〜。
動くな說
と、頷いたりの動く頭が気持ち悪く苛っとしたのは内緒(笑)
あれは、演出家の責任だと思うんですが?
駄目でなかったのかなぁ? それが真剣に不思議だ……。
ま、それも「若手だから」「おいおい、場数を踏んで覚えていくだろう」と思ってみることにした。
えっと、最後になっちゃいましたが。
カリフォルニア〜で買いだった北山さん。
特に感じたことはありませんでしたが、不可もなくこのまま延びていってくれればいいかな? と。
そして、にゃん次の川島さん。
にゃん太郎・にゃん作老人の次に、安心して観ていられました。
そんなトコかな?
また書き残しに気付いたらダラダラ書くかも。
取り敢えずは、以上【ひろぽ】の感想でした。
やっとこさ、良かった感想だし……。
本日二度目の感想。
一番、感動したのは。
フォロー。
恐らく下ピンを出していた方だと思うのですが、本っ当に気持ちのいいタイミングでピンを出してくれる。
「そこでフルっ!! 」「ゆっくりアウト、スタンバイ。どうぞ」「カット・アウト、GO!! 」等々。
本っ当に、絶妙のタイミングで物凄い嬉しかったンです。
まるで【ひろぽ】自身が関さんをフォローしているかのような錯覚に陥ってしまうほど、自分が心の中で出しているQと重なって。
本っ当に、気持ちよかったです。
幕間休憩に入っての第一声が「ピンっ!! 凄い気持ちイイっ!! 」でした。
一服しながらは「この作品だったら、マチソワ二回公演の長旅でも行くっ!! 」と興奮して宣言してるし……。
と、明かりのコトをつらつら書いても……なので。
作品感想に行きます(笑)
柴本さんの振りは安心していられて好きですね。
群舞も定番と云ってしまえば、それまでですが、次はコウ来て欲しいっ!! という希望を殆ど叶えて貰っていると思います。
『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』であるとか、『こんど生まれてくるときはのレクイエム』。
初見でも流れの読めた『都会はいいぜ』(笑)
都会に戻りたいぜグループと、にゃん太郎を囲む女の子猫グループの立ち位置から、何となく想像できて、見事にその予感を裏切らずにやって下さいました。
ウエストサイド物語。
あの基本陣形が大好きです漣
これは、好みの問題かと思うんですが、【ひろぽ】は定番好きです。
特に基本形を全く無視した、奇を衒ったモノはあまり好みでないんです。
ハラハラ感に堪えられないと申しましょうか。
例えば小説。
推理小説ですら、犯人(出来ればトリックと動機も)知ってからでないと読み出せない。
そんなタイプなんで、『都会はいいぜ』の掛け合いも「よしっきたっ!! 」と嬉しく思いこそすれ、「定番だな……つまらん」とは思わないんですね。
矢っ張り綺麗ですもの。
他にも、一人歌い、二人歌い、それに続き、続きで総コーラスとなるパターン。
もう、完璧でした烈
えぇ。
大好物で御座います。
立て膝。振り返り。立ち上がり等々。
度々一人で「よしこいっ!! おしっきたっ!! 」と興奮しておりました(笑)
えと。
ちょっとシリアスな話。
関さんについてなんですが。
【ひろぽ】の感想。
「芝居が大人しいなぁ……。ちっと物足りん」
【ひろろ】の感想。
「芝居が小さい。カリフォルニア〜を観ていなかったら、舞台だと感覚が狂うのかと思ってしまう程」
で、二人で話し合っていくと。
アンサンブルのバランスに辿り着いた。
結論。
アンサンブルのバランスを取って大人しく抑えたか?
その線で振り返ると納得のいく、不満箇所多数。
そうすると、矢張り。
にゃん十一に中尾隆聖を持ってきて欲しかったと、強く思ってしまう。
今公演で、流石関俊彦と思ったのは、ココでも書いたが、にゃん十一が魚に喰われ、戻ってきてのシーンの後ろ姿。
「君に対して怒っているんだぞっ!!」って芝居をしているんだ。 って語る背中に関俊彦を見ました。
自殺しようとする猫たちを止める、にゃん太郎はもう一つ思い切って欲しかったと残念に思う。
云うまでもなく、合格点は取ってはいるのだが、関俊彦だと思うと、もうワンランク上を見せて欲しかったと、やや不満が残る。
同じように、幕開け(この際、紙芝居はおいといて)の帽子を追う場面。
ここも小さく見えてしまい、物足りない。
その為に、私は敢えてぼやかしたのだと解釈。
だが、願わくば折角の幕開け。
ドンッと大きく関俊彦を見せて欲しかったと、思う。
また、ココの関さんについて、【ひろろ】と話し合ってて限りなく低いが、ない訳じゃない可能性が一つ。
今回、児童を対象とした公演がある。
そして、元々「十一ぴきのネコ」は児童劇である(って、何処だかで見たんだモン……)。
それで、含みを持たせず比較的ストレートな表現でいこうとした。
……。
えぇ。
相当無理矢理なこじつけなのは、重々承知です……。
最初に云い出したときは、【ひろろ】に一蹴されましたモノ……。
「それは、ないだろ」
でも、色々考えていくうちに、限りなく低いがない訳じゃないかも……との結論に。
うぅ〜ん。
矢っ張りアンサンブルのバランスの線が濃いのかしらん?
隆聖さんと関さんの二人のシーンはいつもの私達が観たいと思っていた関俊彦なんですよね。
いらない、いらないと云っている紙芝居とか……。
結論。
関にゃん太郎中尾にゃん十一。
残りのネコ達を安心感のある役者にした同作品を観てみたい。
補足。
色々と書いていますが、面白かったンです。
また、【ひろぽ】はある意味DCの公演は初めてです。
去年は関さんと隆聖さんの二人舞台で、カリフォルニア〜は芯を張ってらしたのは安定した役者さんでしたから。
今回のはどちらかというと、若手公演を観に行く感覚で行ったことは確かです。
細かいことを書き出せば、また止まらなくなっちゃう(笑)
にゃん作老人が、にゃん十一に瓶詰めの手紙を書いているトコとか〜。
隆聖さん、関さん止まってるのが見えンのか!?
ルールでしょうがぁ〜。
動くな說
と、頷いたりの動く頭が気持ち悪く苛っとしたのは内緒(笑)
あれは、演出家の責任だと思うんですが?
駄目でなかったのかなぁ? それが真剣に不思議だ……。
ま、それも「若手だから」「おいおい、場数を踏んで覚えていくだろう」と思ってみることにした。
えっと、最後になっちゃいましたが。
カリフォルニア〜で買いだった北山さん。
特に感じたことはありませんでしたが、不可もなくこのまま延びていってくれればいいかな? と。
そして、にゃん次の川島さん。
にゃん太郎・にゃん作老人の次に、安心して観ていられました。
そんなトコかな?
また書き残しに気付いたらダラダラ書くかも。
取り敢えずは、以上【ひろぽ】の感想でした。



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