関俊彦・舞台照明屋応援blog
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【ひろぽ】's BLOG

Date: 2005/11/30(水)   Category: 舞台全般
旅公演
【ひろぽ】は旅公演の回数は、それ程多くはない。
回数は多くないが、一ヶ月半〜二ヶ月との長旅を三年間で六度(かな? )経験した。
マルセル・マルソーの四国・九州公演が初旅だったと記憶している。
一ヶ月弱ほど回って帰ってきて、すぐにテアトル・エコーの『正しい殺し方教えます』で今度は二ヶ月かけて再び九州一周。
それから帰ってきたのが、十二月下旬で、一月の上旬には同演目で中部・北陸方面。
これが、一ヶ月半くらいかな?
旅初日が阪神・淡路大震災のあった日で、【ひろぽ】達は前乗りで三重県津市のホテルに泊まっていた。
テレビで震災から○日目と出る度に、旅に出てから何日目かぁと云っていたのを覚えている。
そんな旅から帰ってきて、暫く東京に。
次に出たのは同演目で北海道・中国方面に一ヶ月半弱。
帰ってきてすぐに劇団飛行船の『ジャックと豆の木』に一週間くらい行って、帰ってきたら『ロビンフッドの冒険』に一ヶ月。
この飛行船。
他の会社の旅公演に一人で出されたと云う事もあるが、別のコトでも感慨深い。
保育園の頃、母親に連れて行かれた高崎の(何故か音楽堂と呼ばれ裏方間で悪名高い/笑)音楽センターでドキドキしながら生まれて初めて観た舞台である。
演目は『シンドバッドの冒険』だったように記憶している。
関係ないが、これから大して間を置かずにウィーン少年合唱団を観に連れて行かれた。
この幼少時の経験が、後に舞台芸術に関心を持つコトになった原因ではないかと思われる。
ふん。
結局、母親が原因じゃんか(笑)
【ひろぽ】が舞台芸術の道に進みたいと云い出してから、専学に行くまでさんざ母親に泣かれてきたが、原因作ったのは貴女様よ? 母上様(笑)
そんな母親は現在、役者をやりたいと云い出して大学を留年してしまった我が弟に泣かされている。
彼が役者をやりたいなどと云い出したのは、【ひろぽ】の責任だと迷惑なモンを押し付けられて困ってる。
弟よ。やるなら是非ともDCに潜り込み、出演者扱いでチケットを回せるようにまで育ってくれ。
そうすりゃ、チケット取りの苦労がなくなる〜。
なんてね。九割方冗談。後悔のない勉強の出来る養成所に入れることを祈っててやるよ。
でも一割本気な姉(笑)

話が大きく脱線してるなぁ。
元に戻そう。
ま、飛行船に行って初めて観た舞台の仕事が出来ることに感動して帰ってきて、翌年の春から初夏にかけての静岡県内一周旅が最後。
あれ? マルソーもう一回どっかで半月ちょっと行ってるんだよなぁ。
その時のコピーが『君は生きる伝説を観たか』で、マルソー生きてるまま伝説にされちゃったよとか云ってたんだけど。
ま、いいや(笑)

してして。
何故突然、旅公演?
そりゃ、前振り(だったのか? )にもありますように。
DCの公演観て色々思い出したから(笑)
【ひろろ】が今K-BALLET COMPANYで旅に出てるってコトもありますけれど。
そーいや……。

うわぁ〜ん。
駄目だよママンっ!!
我慢できないっ!!
矢っ張り云わせてくれ〜!!

さかなちっちぇ。←ちょっと拍子抜けな調子でさかなちっちぇ。

ふぅ〜。
満足〜。
すっきりしたよ〜。
魚ちっちゃかったんだモンよ〜。
あんまりの可愛らしさに拍子抜けしちゃったよ〜。

何処のカンパニーの何という公演に出てきた魚かはナイショ。
でも、話の流れで殆どバレバレ(笑)

おしっ。
本筋。
エコーの、というか演劇鑑賞会の旅公演に行って良かったと思う事。
数多くの劇場での仕込み本番バラシを経験できた。
乗り打ちバラシの連続と云う程ではなかったが、『乗り打ち→本番バラシ』や『乗り打ち→本番→本番バラシ』が多く一ヶ月半から二ヶ月ほどの旅に出れば、少なくとも両手以上の会館での仕込み本番バラシは経験できた。
それも行き馴れた所ではなく、初めての会館が殆どだった。
流石に九州は都合三度行ったので、三度目には『初めて』は殆どありませんでしたが(笑)
で、多くの劇場での仕込み本番バラシを経験出来て何を得たのか?
【ひろぽ】あの会社にいながら、旅の最中にプログラムの変更のない芝居の旅しかついたことがないんですね。
これについては色々とあるんで今は割愛(笑)
プログラムの変更がないと云うことは、当然基本の仕込み図・明かりは同じ。
と、云うことは。
同じであって同じでない仕込みをし続け、同じであって同じでない明かりを見続けることになる。
当然、芝居も同じように見続けるんですけどね。
すると、なんとなく劇場に入ってから見なきゃいけないもの何なのかが見えてくるようになった。
うぅ〜。
これ、アタシが書くの恥ずかしぃよぉ〜。
アタシ如きが書いて良いのか!?
うぅっ……おしッ!!
旅の話題だけに、旅の恥は書き捨てっ!! (←ちょっと違う? 『掻き捨て』の誤字じゃないっすよ/笑)
書く。
まね、先輩にヒント出されたり、動きを真似したりってコトをしてたんで自力で見えるようになったって訳じゃないんですが。
しかも、本っ当に初歩の初歩っつー段階からなんで、自分の恥曝すようで滅茶苦茶書いたコト後悔しそうなんですが……。
うぅ〜ん。
いい。
そうさっ!! 旅の恥は書き捨てじゃっ!!
少しでも新人・若手さん達の役に立てばいいやっ!!
本当に、役に立つかどうかは知らないけど……。

えと、先ずは仕込みについて見えてきたコト。
劣 搬入・仕込み前に舞台に上がって確認しておいた方が良いこと。
劣 会館の職員さんに、確認しておくコト。
劣 搬入した機材の捌き方。
劣 人の動き。
劣 同じ仕込みを続けていることによって、劇場の条件ごとの仕込み方の違い。
劣 同じシュートをすることによって、劇場の条件ごとのシュートの仕方の違い。
劣 同じ明かりを作ることによって、劇場の条件ごとの明かりの作り方の違い。
思い浮かぶのは、こんなかな?
初歩の初歩が入ってるのは、笑って見過ごして下さい〜。
本っ当に恥ずかしいっす……。
大事なモン忘れてたら、優しく突っ込みお願いします……。
えと、で。
こんな風に、旅に出ている間に見えてきたコトがあるんですね。
んで、後半の三つは段々応用が利くようになってきたんです。
(当時の【ひろぽ】を知る方。アレでかよ? とかの突っ込みは【ひろろ】経由で……/笑)
東京の大人数の現場だけだったら、或いは少人数でも時間に追われての現場だけだったら、もっと時間が必要だったかもと思います。
エコーの旅についていたコトを私にとってマイナスだマイナスだと、再三再四言い続けた方もいらっしゃいましたが、私自身はプラスだと思っています。
同じ仕込みを、違う小屋で幾度もするってのも悪くないと思いますわよ?

で、次。
同じであって同じでない明かりを見続けることによって見えてくるモノは。
劣 劇場の条件ごとの作り方の違い。
はうっ。
これしか分かんない……。
やばっ。……必要に応じて、【ひろろ】補足願います……。

で。
芝居も同じように見続けるコトによって見えてきたモノ。
これなんですが、ちょっと他にも書きたいコトがあるんで。
『目を肥やしなさい』『見る目を養いなさい』に続きます。
Date: 2005/11/29(火)   Category: 関俊彦舞台感想
【ひろろ】の「十一ぴきのネコ」感想
【ひろろ】も「十一ぴきのネコ」の感想を書きたいと云い出して、書いたので、UP烈
因みに。
【ひろぽ】はG列13番。
【ひろろ】は当日捌きで買ったので、B列20番。
座席の差で、感想の差がどれだけでるか楽しみ!?
あんまし、かわんなかったらご愛敬(笑)



不完全燃焼だったと言うのが正直な感想です。
カーテンコールも手拍子をする手が上がってこなかった。
普段ならあのテンポの曲が入ったカーテンコールには意識しなくても自然に手拍子を始めているのに……。
何故なんだろうと【ひろろ】なりに考えてみた。
作品自体は面白かったのに今一つと思ってしまったのは、やはりDCに、役者 関俊彦に、井上ひさしの「十一ぴきのネコ」に期待を高く持ちすぎていたからかな。

客電が消えて始まるプロローグその後にあらためて入るにしては長目のオーバチュアで一歩引いて芝居を見始めることに(暗転中に見切れているムービングスポッットが首をふり続けているのが気になったせいでもあるのですが)

帽子を追いかけている関さんの芝居は、少し中途半端だったかな、【ひろろ】はあのシーンを、明るい性格のにゃん太郎も一人でいると寂しいので帽子とお話ししながら寂しさを紛らわしているように思えました。
であれば、関さんにはもっと緩急を付けた芝居をしてほしかった。
まず帽子を追いかけるところは精一杯笑顔で明るく、上手に去っていく帽子にかける言葉は空元気を感じさせて、一人になって背中と肩で寂しさを出し、下手から出てきた帽子には目一杯の嬉しさを出して、それだけに再び去っていきそうになる帽子を追って他のネコたちがいることに気がつく余裕もなく袖に突っ込んでいくにゃん太郎、といった流れがメリハリをつけて演じてもらえたら、もっと自然ににゃん太郎に感情移入できたと思うな。
それが出来る技量を持った役者さんだと思っているから。

無対象での芝居かどうかの判断に時間がかかってしまったことも、【ひろろ】が集中しにくかった理由の一つでした。
芝居の序盤はいつもどんな形式に作ってあるのかを探ってしまうんですが、今回は小道具を無対象で作っているにもかかわらず、最初に出てくる帽子は本物だったり、競馬新聞やハタキなどの持ち道具が目に付いてしまったり、巨大な注射器が出てきたりして、関さんの釣り竿を持ち出す頃まで、芝居全体を通して無対象で演じて行くのか、このワンシーンだけなのか判断に迷ってしまいました。

役の重さに比べて技量不足に感じられる役者さんも気になってしまった所です。
めんどくさそうに動くシーンではダラダラ動く演技をせずに本当にダラダラと動く。
これで重要度が高い役をやられていると、どうしても目に付いてしまいます。
力のある役者さんはきちんと演技をするからダラダラした動きも、それらしく見えるように計算しているからメリハリが出来るのに、ただダラダラ演じられると辛いです。
これをナチュラルな芝居をしていると勘違いしている役者さんなのか、純粋に技量不足なのかはわかりませんが、芝居に集中して見るには、辛かったかな。

細かいところを言えば他にも色々あったのですが、良い芝居だと感じつつも今一つ入り込めずに進行していきました、そして最大の不完全燃焼ポイントはラストにやってきました。
ネコ達が唄いながら死んでいくのですが、苦しんで逝く悲劇性を訴えたいのならばミザンスを少し変えて、ネコ達は下前で一匹、上奥で一匹とバラバラに死んでいってほしかったし、あのシーンにネコ達の救いを出すのであれば、中央に集まって死んでいくネコ達(にゃん太郎一人でも可)にもっと歌い上げてほしかった。
最後の選曲から行っても【ひろろ】は後者だと思っていたラストが、エピローグの紙芝居に持っていくためかもしれないのですが、どっちつかずの中途半端な形に待ってしまったのが残念です。

もちろん良いところもたくさんあり、見て良かったと思っているんですよ。
でもそういった感想は、色々なところで語り尽くされていくことの繰り返しになりそうなので、今回は【ひろろ】的に気になった所をまとめてみました。


以上。
【ひろろ】の感想でした。

因みに。
前も似たような質問があった気がするんですが……。
ま、いいや(笑)
えっと【ひろぽ】が退職するまで勤めてて、旦那の【ひろろ】が現在進行形で勤めている会社でやった仕事が、どんなもんか知りたいと云うのがありましたので。
ここからです
因みに。
【ひろぽ】【ひろろ】の舞台照明サイト【ka-i-ka-n】コチラ
Date: 2005/11/29(火)   Category: 関俊彦舞台感想
DC版は何故『毒』を消してしまったか?
ドラマティック・カンパニーの『十一ぴきのネコ』には『毒』がない。
昨日、【ひろろ】が旅から戻ってきて、明日まで自宅にいるのでじっくり話す時間が十二分にとれたので、再びDC版『十一ぴきのネコ』について語り合った。

ととっ。
その前に、ここで当ブログでの『十一ぴきのネコ』の表記について説明。
幾つかの書き方をしちゃっているようなので。
原作版『十一ぴきのネコ』原作版
エコー初演版『十一ぴきのネコ』初演版『十一ぴきのネコ』
こまつ座初演版『十一ぴきのネコ』決定版『十一ぴきのネコ』
井上版『十一ぴきのネコ』エコー版・こまつ座版の両方を指す

ここからが、本題。
【ひろろ】とダラダラ喋っていて、DC版の物足りなさは決定版を踏襲しているのに『毒』がないからではないか? という結論に新たに辿り着いた。
ここで云う井上の持つ『毒』とは、
初演版では繁栄の代償=心の歪みによる仲間殺し
決定版では繁栄の代償=汚染による自業自得からの死
である。
が、DC版は?
猫たちは、被害者でしかない。
本来ならば、人間が払わなければならない代償を猫に払わしてしまっているのである。
……。
と、今これを書いていて。
何気なく続けようとした自分の言葉に驚いた。
こう続けようとしたのである。
大量の猫の死によって、人間は汚染と云う名の『毒』の恐ろしさを知る。
そして、汚染の問題を考えることになる。

毒だ……。
物凄い毒だ。
猫は人間に殺された。
猫を殺した人間は、このままじゃいかん。
自分らは、猫たちのようにならないように環境問題に真剣に取り組もうっ!!
ですよ……?
ネコ……人間に利用されるだけされてポイッ!?
いや、まぁポイまではしてませんがね。
野良猫たちは人間の為に、人間に殺されたってコト!?
にゃん太郎やにゃん四郎の実験所送りの運命を辿りそうになった子なんて、実験所送りの方が倖せだったんじゃ……。
解剖ならきっと麻酔は掛けてもらえると思うんだけど……。
あっ駄目か?
病気にされちゃう子だったりしたら苦しいか……。
うぅ〜ん。
ま、いいや。
深く突っ込むの止めよ。
えぇと。
話を戻します。
何故、猫が人間に利用される羽目になるのか?
普通、環境問題を考えるときに『猫』の為だけに考えるでしょうか?
人間社会にかなり比重を置いて考えるのが一般的だと思うんですが……。
『殺してしまった『猫』に可哀想なことをした』という思いからだとしても。
もし。
もしも、本っ当にDC版の主題を環境問題にしているのであれば。
ものすごぉ〜く、ブラックな作品だったんですね……。
ま。
こんなブラックな作品にしようとした可能性は決して高くないと信じていますけど(笑)
問題の。
A.DC版は何故『毒』を消してしまったか?
Q.早い話が。『猫を悪者にしたくなかった』かな?
 理由として、子供が観るからでしょうかねぇ。
 他に理由が思い付かない……。



話の流れで盛り上がった、こんな『十一ぴきのネコ』が観たい。
DC版の流れできたとして。
驪 ハッピー・エンド版
都会に戻りたいグループは、にゃん太郎達の田舎もいいぜグループの制止を振り切り、都会に戻る。
都会に戻ったにゃん十一達は、残飯を漁ったりしながら楽ではないものの生き延びる。
田舎に残った、にゃん太郎達は毒に侵された魚を食べて死んでしまう。
にゃん十一は風の便りに、にゃん太郎達の最期を知り、都会はいいぜと歌う。
それぞれの場所で同じように聞いた都会戻り組猫たちの声が重なる。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ ど田舎なんぞ くそくらえ
に重なるように、田舎残留組の倖せそうなシルエット及びコーラス。
都会戻り組は、歌本来の調子で歌い続ける。
掛け合いが続き、田舎組の最終小節、歌詞終わりで田舎組やや早めのフェード・アウト。
田舎組が消えたことに気付かず、調子よく歌い続ける都会組。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ
で、にゃん十一は田舎組が消えたことに気付き、思い出と歌っていたコトに気付き、思い出を捨て明日を生きると、ラストの歌い上げ。
鍊ど田舎なんぞ くそくらえ
曲終わり、足取り軽くハケ暗転。
因みに、十一以外の都会戻り組猫は田舎組と一緒に消しちゃっていいかな?
最後は十一に持っていきたいっす。


麗 悲劇版 其の壱
都会戻りたいグループが戻ってきて、田舎組の死を知り歌に入るまでは同じ。
最後の掛け合いから変化。
田舎組最後のコーラスから、声に苦悶が混じる。
1匹倒れ、2匹倒れ……。
最後に残ったにゃん太郎が、恨みを全開にして。
鍊泉よ あなたは母親だ
はっと振り返る、にゃん十一。
倒れる仲間・苦悶の表情を見せ付けられ、愕然とし。
ゆったりと、再度歌い出す。
鍊あばよ ど田舎 おさらばさ
舞台正面に躰を戻しながら、嘲笑に近い調子で歌い上げ。
ピン残し。
鍊ど田舎なんぞ くそくらえっ!!
歌詞終わりカット・アウトッ!!

紙芝居をつけるならば。
関さんの元・サラリーマンに。
「私は……野良猫にされるのはゴメンです」
言い残し、ハケ。
紙芝居屋、残され肩すくめ、紙芝居を仕舞いながら反対袖に、十一ぴきのネコが旅に出た鍊と口ずさみながらハケ。フェード・アウト。


黎 悲劇版 其の弐
死を直前にした猫たち。
『こんど生まれてくるときはのレクイエム』を歌いながら苦悶し1匹、また1匹と逝く。
但し、歌詞を変更。
「水の綺麗な」であるとか「空気の綺麗な」であるとかの、要は汚染されていない場所に生まれてきたい。との歌。
んで、最後の1匹にゃん太郎が
鍊汚れた地だけはごめんさ(つか、この類のこと)
と、歌い捨て大きな痙攣一つ。
倒れ伏して。
ふと気付けば、舞台前ににゃん作老人の姿。(にゃん作老人は留守番とする)
旅に出た若猫たちの最期をなんとはなしに、感じ取り。
鍊 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが旅に出た
と、悟ったように口ずさむ。(暗い明るさでも可)
この歌の前に、にゃん作老人に。
「さぁ。次の猫たちは? 」的なことを云わしても可。


力 ↑のハッピー・エンド版
死を直前にした猫たち。
『こんど生まれてくるときはのレクイエム』を歌いながら1匹、また1匹と逝く。
但し、歌詞を各猫用に変更。
んで、最後の1匹にゃん太郎に、倖せを前面に出しての歌い上げ。
笑みを残したまま倒れ伏す。
ふと気付けば、舞台前ににゃん作老人の姿。(にゃん作老人は留守番とする)
旅に出た若猫たちの最期をなんとはなしに、感じ取り。
鍊 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが旅に出た
と、悟ったように口ずさむ。
で、転調して。
にゃん作老人、黙る。
振り返れば、紗裏に明かり入る。
やや、優しい調子で十一ぴきのネコに続き歌わす。
んで。
再度、転調。
鍊北の空のお星様 〜
から。
本来の調子に戻り。
紗は上がり、フル・ライト。
にゃん作老人も十一ぴきのネコの輪に加わり、明るく、楽しく、歌い。
最後の。
鍊旅に出た
で、12匹の猫達は団体様で明るく、最後の歌いあげをすると。
にゃん作老人が、一人輪から外れる。
彼らを見守る眼差しのにゃん作老人。
何故か用意してある旅道具。
よくある、棒の先に布袋。
猫達がにゃん作老人に背を向け、新たに旅立とうとすると、にゃん作老人も旅道具を背に背負い。
猫達と反対の方向に、歩き出そうとして。
総員ストップモーション。
シルエット。
シルエット見せての、フェード・アウト。
一間おき。
タブロー。
暗転。
拍手の中、曲入り。
コールライト。
カーテンコール。



うひょ〜。
楽しかった烈
めっちゃくちゃたのしかったっすっ!!
色々脳内劇場で上演しながら、感動出来る自分が馬鹿だと思った(笑)
辻褄は無視(笑)

はぅ。
楽しかった。
なんか、今迄の不満が殆ど解消した気分。
脳内劇場安上がりでいいや(笑)
Date: 2005/11/28(月)   Category: 舞台全般
舞台芸術の面白さ・魅力。或いは、怖さ。
* 舞台芸術は基本的に前払いです。
* ○月○時○○で、○○と云う商品をその場で作り、販売します。
* サンプルはありません。出来も分かりません。
* 現物を確認して買うか買わないか決めることも出来ません。
* キャンセルは出来ますが、返品・返金には一切応じられません。
* 複数回公演がある場合、100%同じモノを提供出来るとは、お約束出来ません。
* 販売側は作り損なった作品でも、それを渡すしかありません。
* 勿論、観客側もそれを受け取るしかないのです。
* それでも、返品・返金には応じてもらえない前払い方式です。

観客はこの決してイイとは云えない条件をのんで、出来を信じ、前払いして、足を運んで来てくれた人です。
商品を売る側は、この信頼を裏切らない作品を提供するのが当然。
裏切ってしまえば、次からは裏切った観客に捨てられても仕方のないコト。
「昨日の出来は良かったんです」
「今日は、たまたま出来が悪かったんです」
は通用しない。
観客にとっては、自分の観た回が受け取った商品の全てであるから。
そのシビアさが、観る側もだが、商品を売る人間にとっても面白いのではないかと思う。

因みに、【ひろぽ】は本番前のドキドキが大好きでした。
ピンに馴れていない頃は、滅茶苦茶本番が怖かったけど(笑)
本番くるのがイヤだった。
感覚が掴めてくると、楽しくなってきたんですけどね(笑)

でも、舞台で一番好きなのは。
終演し、バラシ終えた舞台。
ガランとした舞台上から見る劇場の風景が好きです。
あの妙な寂しさを覚えるのが何とも云えない。
この感覚が好きな人も少なくない数いるんじゃないかしらん?
Date: 2005/11/28(月)   Category: 関俊彦舞台感想
「十一ぴきのネコ」感想 最後に一言
思うのだが。
幕切れの猫たちの姿。
あれは、元々は魚を喰らって死んでしまった後、にゃん太郎もにゃん作老人も仲間と一緒に倖せそうにしている絵だったのではないか?

毒の魚を喰らってしまって、死んではしまったがもう独りぼっちじゃない。
仲間と一緒だものっ!!
ついでに、お腹が減る心配もなくなったしね(笑)


殺された猫ではなくて、死んでしまった猫の姿であったのではないか?
そうであって欲しいっ!!


と、願ってしまうのは意図して方向性を変えたんじゃなくて、色々分かり易くなるように付け足したら結果的に方向が変わっちゃっただけだと思い込みたいファン心理。
頑張って劇団側を擁護してみた。
だって〜。
関さん好きなんだモン……。
Date: 2005/11/27(日)   Category: 関俊彦舞台感想
十一ぴきのネコ 萌えたんだよっ!!
えぇいっ!!
萌えを叫んでいないことに今更気付く。
よしっ!!
そんな訳で。

猫ミミ関さん漣 猫しっぽ関さん漣
可愛いっ漣
いやん
めっちゃくちゃ可愛かった漣
それ以上に可愛かったのはコート姿のサラリーマン

んで、歌。

『ネコの大漁唄い込み』。
特に、鍊オコサデ・オコサデー ホントダネ!!
の部分が、TDLの『魅惑のチキ・ルーム』の、チキの神様の起きる曲に似てません?
ドンドコ・ドンドコ・ピー・ピーって曲。
頭に残る〜。
残ると云えば、「大きな声では云えないけれど鍊」が気付くと頭を回ってる。
「大きな声では云えないけれど鍊」の部分だけが、エンドレスで(笑)
つか、『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』が好み漣

CDになっている曲としては、
驪風
  関さんは外せない漣
麗ぼくの主人は〜6匹の物語〜
  この分かり易い、掛け合い系の曲に弱い(笑)
  鍊大きな声では云えないけれど
  と、
  鍊時はこの春金曜の ところは都会の停留所
  と、
  鍊ひたひたと運命の時がせまる
   ひたひた ひたひた ひたひたひたと
  が、抜けない。
  
  この曲は明かり裂も好みで、ゾクゾクしました烈
  フォローが物凄い気持ち良かったっ!!
  
黎都会はいいぜ
  えっと、これはウエスト・サイド物語になってから。
  なんのこっちゃ。
  都会戻りたいぜグループと、田舎も良いぞグループの掛け合いからが好き漣
  
お気に入りはこの3曲。
魚の子守歌も入れて欲しかったんだけどなぁ……。
思わずおゼゼ陋の問題かと思ってしまった【ひろぽ】は汚い大人(笑)

んで、何故か
鍊十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコが 旅に出た
が、【ひろぽ】が唄うと
鍊にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く……? ん?  
に、なってる……。
何か変な風にインプットされたらしい……。
CD聴いてても
鍊にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く にゃん太郎が行く……? とか歌ってるし……。
うぅ〜ん?
ま、そんなコトもあるさっ。

関さん『風』のフォロー裂も物凄く気持ちよかったんですよねぇ。
うっとりしちゃいました。
白い衣装なのに、膝ちょい上でしかもシャープで取るから最初は気持ち悪かったんだけど、途中から気になんなくなっちゃって。
ま、舞台奥に行って全身で押さえられるようになったってコトもあるんでしょうがね。
もぉ気持ちよくて気持ちよくて。
それもあって、『風』はお気に入り
鍊手と手をこする あんよをはねる 
の、可愛らしさと云ったらっ!!
倖せでした漣

実は、感想其の壱〜其の伍を書いているときは常にこのCDが流れていました。
んで、今も『風』がエンドレスで流れてる(笑)
寝るまでコレかな?
Date: 2005/11/27(日)   Category: 関俊彦舞台感想
「十一ぴきのネコ」感想 其の伍
続いてしまいました。
「十一ぴきのネコ」感想です。
DC版「十一ぴきのネコ」の脚本に対する感想かな?

にゃん作老人の存在に違和感を感じ続けていた私は、オリジナルでの扱いを探しにネットを巡ってみました。
すると、簡単に答えが見つかりました。
オリジナルでは、にゃん作老人は湖の地図を渡すだけで旅には参加しないようです。
それをDC版では参加させてしまったから、しっくりこない感を覚えてしまった。
それだけでなく、にゃん太郎についても悪い方へ作用してしまったのではないか?
にゃん太郎の姿が見えてこなかった理由の一つとして、関俊彦の芝居が大人しかった所為ではないか? というのをあげています。
私は他に、にゃん作老人の存在感が引っ掛かっていたのですね。
作品中、にゃん十一がにゃん太郎のコトを「いつの間にか、リーダーのようになって」とにゃん太郎の立場を説明する場面があります。
確かに、リーダー扱いと云えばそうなんですが、その割りにリーダーとしての姿が弱く感じてしまっていたんです。
それを強く感じたのは、次の三箇所。
にゃん十一が魚に喰われ、助ける方法を考えているとき。
毒に苦しんでいる仲間達に飲ます水を探しに行って手ぶらで帰ってきたとき。
仲間達を看取るとき。
この三箇所で共通しているのが、にゃん作老人の存在。
中尾隆聖の存在感ではなくて、にゃん作老人の位置付けの問題。
にゃん十一を助ける方法を考えたのは、にゃん作老人。
苦しむ仲間を励ましていたのは、にゃん作老人。
最後の一人まで看取ったのは、にゃん作老人。
この三箇所において、にゃん太郎はNo.2になってしまっている。
名前数字組とにゃん作老人の間にもっと明確な一線が引かれているのであれば、オブザーバーとリーダーの関係と受け止めることも出来るが、にゃん作老人が入り込みすぎている。
もし、一線を引いたとしていも、芯に振るような役割を与えてしまい、台詞を与えてしまっていては同じコトになる可能性は十二分にあると想像できる。
また、せめてにゃん太郎のリーダー的な立場が確立されてからであれば、多少は違ってきたかもしれない。
が、にゃん太郎がリーダー的立場にあると思わせるようになるのは、にゃん作老人の登場とほぼ同時期ではないか?
にゃん太郎が餌探しに行っている間に、残った猫たち(既に仲間として行動していた十匹)は、にゃん太郎が戻ってくる前に自殺してしまおうとする。
(上の理由だけでは、理由に弱い気がしないでもないのだが)少なくとも私は、この段階では、まだ猫たちはにゃん太郎を仲間と認識していないように思われる。
流れの余所者的な感覚だったのではないか?
ま、余所者までは言い過ぎにしても、新しい仲間ではあってもリーダーではなかった。
個人的には、にゃん太郎が野良猫仲間の仲間と正式になったのは、ネコのそれぞれの事情を聞き、自分の事情を明らかにして以降だと踏んでいる。
そして、にゃん太郎にリーダー的役割を振り始めるのは、にゃん作老人を仲間達の元に連れてきて、大きな魚のいる湖目指し旅に出ようと旅に出るあたりからではないか?
で、ココから無理が生じてくる。
にゃん作老人を連れていってしまう為である。
本作品中で
十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコ
十一ぴきのネコが 旅に出た

DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜
より抜粋
と、歌っているのに旅に出るのは十二匹。
……って、数字ネコ十一ぴきいましたよね? 欠番があって、にゃん作老人入れて十一だなんてオチなかったよな……。
あぁ。大丈夫でした。思わずパンフ確認しちゃったよ(笑)
そんなで、DC版では旅に出るのは十二匹であるのに、実際旅に出るのは十一ぴき。
ここで頭の中に? が飛び交う。
にゃん作老人の位置付けが分からなくなってしまうのである。
若い猫たちの道標的存在で、遠いところから彼らを見守るモノと思っていたのに何故か一緒に連れていってしまう。
で、彼が長老として君臨する形になってしまっている。
にゃん太郎は青年団の団長と云ったところか?
にゃん作老人を長老的存在とし、旅に連れていくことにしたのは、中尾隆聖関俊彦の二本柱を立てたかったからだけではないのか? と思わざる得ない。
にゃん作老人のオリジナルでの位置を確認した今、その思いは一層強くなる。
また、にゃん作老人を連れて行くのなら、連れて行くなりにしっかりと本を書くべきだったのではないか?
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更されてしまっていたから、にゃん太郎の姿がぼやけ、にゃん作老人の存在に悩まされる羽目になったのではなかろうか?
この、『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』は幕切れの悪さにも作用してしまっているように思える。
DC版は決定版「十一ぴきのネコ」を踏襲しているようであるから、魚の毒は繁栄の裏に隠された黒い部分(或いは、繁栄の代償)の象徴である。
繁栄するには、綺麗事だけではすまない。

少々話が脱線するが、【ひろろ】から昨夜電話越しに興味深いことを聞いた。
井上ひさし氏は、『表裏源内蛙合戦』で平賀源内の死の後。
幕切れである歌を歌わせた。
それを要約すると。
綺麗に生きていきたいのなら、死。
上手に生きていたいのなら、綺麗に生きていくことを捨てろ。

決定版「十一ぴきのネコ」の結末によく似ていないか?
オリジナルでは、猫たちがネコの国を建国し、ネコの国に繁栄が訪れ、繁栄による毒で侵された魚を喰らい、その魚の持っている毒で死んでしまう。
これは、先程も書いたが『繁栄するには、綺麗事だけではすまない』というメッセージだと思われる。
と、すれば。
十一ぴきのネコが喰らったのは、繁栄の代償。
しかし、DC版の猫たちに繁栄の影はない。
強いて云えば、棚からぼた餅の代償か?
猫たちが捕らえ喰らった魚は毒で苦しみ、自殺したがっていた。
結果的には、魚の自殺幇助である。
生を求める魚を捕らえるよりは、死を臨む魚を捕らえる方が楽であろう。
楽をしてしまうと、自分も駄目になってしまいますよ。と云いたいのか?
ただ、この魚を捕らえる設定がオリジナルと同じであった場合、この説はかなり強引に思われる。
猫たちの死因が魚の毒によるモノではなく、魚の食べ過ぎであったとかであれば、『楽をしたことの代償』説をどうにか引っ張ってこれるか?
これも強引な気がしないでもないが(笑)
とにかく、DC版では「代償」の存在が消されているように思える。
代償の対象がないのだから、仕方がないか?

ここで、再び『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』の話に戻る。
(私は原作を読んではいないので、解説から内容を読み取るしかないのだが)原作は、魚を捕って腹を満たし、ネコの国を作って倖せとなりましたとさ。で終わるらしい。
決定版「十一ぴきのネコ」では、繁栄にはそれなりの代償があるのだと風刺して終わる。
ではDC版では?
『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』してしまっている為に、どっちつかずで終わる。
『仲間もでき、腹も満ちて倖せだ』のストレートなハッピー・エンド。
と。
『喰らった魚は毒に侵されてて、自分らもその毒で死んでしまいましたとさ』の喜劇(本来の井上版「十一ぴきのネコ」は社会風刺の効いた喜劇だと認識している)としての終わり。
この二つの異なる結末を、足して二で割ろうと(或いは、両方を追おうと)してしまったが為に、物語の方向を見失い結果として、中途半端な悲劇に仕上がってしまったかのように思えてならない。

この中途半端さを、『悲劇』にしてしまう理由が(再三書いてるが)幕切れの紙芝居である。
「これって、悲劇にだったのかっ!? 」と、叫ぶ要因になったのが元・サラリーマンの発した『毒』と云う単語と、「君が君の願う紙芝居のラストを書きなさい」的な紙芝居屋の言葉。
コレによって、「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」と云った印象を受けてしまう。
また、元・サラリーマンが猫たちを殺す原因となった『汚染』を人間の責任として書いてしまっているように思える。
実際、私は猫の死は人間の責任であるかのように思えた。
ココで猫が人間に対する恨み節を述べていたか? 述べてもいないのに、突然『毒』が出てくる理由がわからん。と書いているのが証拠である。
で、このまま行くと話が感想 其の参に戻ってしまうので、先行きます。
猫の死因を自らが招いた結果ではなく、第三者(人間)の手に因るものとしたから、風刺の効いた喜劇ではなく、『人間によって殺された、猫たちの悲劇』となってしまったのではないか?
また、ここで井上版「十一ぴきのネコ」が持つテーマさえも、すり替えが行われた気がしてならない。
紙芝居屋が男に白い画用紙を渡すことにより、
「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」
的な印象を受けると上で書いた。
この事によって、本来ならば「何かを得るというコトは、失うコトでもある」といった内容から、「可哀想な猫たちを増やさない為にも、環境問題に気を配りましょう」に突如としてすり替わっていく。
二重に、且つ強引に、主題をすり替えてしまうから、無理が生じてくるのも当然の結果だと思われる。
ここに生じた無理が、取って付けたような、居心地の悪さとなってしまうのではないか?

DC版の作りならば、無理に猫を殺ささずとも良かったのではないか?
原作を踏襲して、猫はお腹いっぱい。倖せいっぱいで暮らしましたとさ。
で、良かったのではないかと思う。
井上版を踏襲したいのであれば。
食べた魚は毒を持っていました。その毒で死んでしまうのですが、独りぼっちではなく、仲間と一緒に死ねたことは野良猫にとっては倖せだったのかも知れません。
といった方向に持っていけば良かったのではないだろうか?
猫の国の話を省いてしまっているのだから、魚の毒と汚染の関係も省いてしまい、たまたま毒を持っていた魚にしても不都合はないように思える。
『繁栄の代償』といった線は消えるが、『何かを得るというコトは、失うコトでもある』といった線は残していけると思うのだが。

幕開きの紙芝居がなければ、幕切れの紙芝居が必要なくなる。
幕切れの紙芝居がなければ、「「十一匹のネコ」は『汚染』によって(結果として)殺された猫たちの悲劇」というテーマのすり替えは起こらなかったのでは?
テーマのすり替えがなければ、ココまで不快感を感じるコトはなかったと思う。

結論。
紙芝居は要らない。
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけ変更はするな。
するなら、子供だましのような誤魔化しでなく、完成させるべき。

結局。
井上作品をやるなら、弄らずマンマで。
に辿り着く。


観劇から今日で3日目。
冷静になればなるほど、不快感が増して来るんです。
オリジナルの筋を知れば、知っただけ。
私はDCの「十一ぴきのネコ」をDC版と書いていますが、【ひろろ】は反対しています。
〜版とは、作品として完成してこそ使える言葉。
DCのは完成品とは思えない。
これに反論する言葉は、私にはありません。
同じように思うから。
私の頭を過ぎり、同様に【ひろろ】も浮かんだのは。
中尾隆聖関俊彦人気に胡座をかいたか?
でした。
この作品の出来では、そう穿ちたくなる。
正直、DCとしての舞台はもういいかな? と思いました。
関さんの舞台は信頼の出来る劇団の客演だけの方がいいか? とか。
このクラスを見せられるのはちょっと勘弁だな。とも。
もし。
去年のラブラブ〜と今年のカリフォルニア〜を観ていなければ、DCの舞台は切ってしまったと思います。

内緒なんですが……今回の失敗の原因の一つに中尾隆聖関俊彦の二本柱に頼りすぎたか? ってのも残ってます。
二本柱でいくなら、にゃん太郎を中尾隆聖。にゃん十一に関俊彦でいったらもう少し締まったかな?
とは、【ひろろ】の弁。
頑張りが空振りに終わっても、終わってもめげずに頑張る、にゃん太郎を可愛らしい空回り具合を期待できる隆聖さん
結構、寂しン坊なのに虚勢を張っちゃう、にゃん十一を奥行き芝居を思いっ切り堪能できる関さん
だそうで。
これは【ひろぽ】も観たいっ!!


ダラダラ書いてますが、最後にもう一言。
DCの「十一ぴきのネコ」にこれだけ不平不満を述べていながら、面白かったという感想も持っているのも本当です。
作品をぶつ切りにして、ストーリーを追わなければ面白かったんです。
必然的に歌・踊りのシーンが中心となってしまうんですが。
早い話が。
(当blogを読まれている方の多数が、ガンダムSEED DESTINYを知っているモノと想定して、話をしちゃいますが)
SEED DESTINY FINAL-PHASEを読んで頂けると分かり易いのですが、【ひろぽ】はSEED DESTINYを駄作としていません。
話の内容を捨てて、関さんの演られているレイ・ザ・バレルだけを追っていたからです。
えぇ。関レイさえよけりゃ合格だったんです。
それと同じで、ストーリーを捨ててしまえば楽しめました。
多少、関さんの芝居に物足りなさを感じることはあったモノの、観て良かったと思える程度には満足させて貰いました。
この作品なら全公演マチソワの長旅でも行くっ!! と云う発言は、この物語に関わりたいという思いからではなく単純にフォローに感動して自分もやりたいっ!! との思いからです。

以上、面白かったのは本当なんだよ〜と云う【ひろぽ】の自己弁護でした(笑)
Date: 2005/11/26(土)   Category: 関俊彦舞台感想
「十一ぴきのネコ」感想 其の寿
だって、ほら。観光バスも4号車は寿号車になるから……。
やっとこさ、良かった感想だし……。
本日二度目の感想。

一番、感動したのは。
フォロー。
恐らく下ピンを出していた方だと思うのですが、本っ当に気持ちのいいタイミングでピンを出してくれる。
「そこでフルっ!! 」「ゆっくりアウト、スタンバイ。どうぞ」「カット・アウト、GO!! 」等々。
本っ当に、絶妙のタイミングで物凄い嬉しかったンです。
まるで【ひろぽ】自身が関さんをフォローしているかのような錯覚に陥ってしまうほど、自分が心の中で出しているQと重なって。
本っ当に、気持ちよかったです。
幕間休憩に入っての第一声が「ピンっ!! 凄い気持ちイイっ!! 」でした。
一服しながらは「この作品だったら、マチソワ二回公演の長旅でも行くっ!! 」と興奮して宣言してるし……。

と、明かりのコトをつらつら書いても……なので。
作品感想に行きます(笑)

柴本さんの振りは安心していられて好きですね。
群舞も定番と云ってしまえば、それまでですが、次はコウ来て欲しいっ!! という希望を殆ど叶えて貰っていると思います。
『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』であるとか、『こんど生まれてくるときはのレクイエム』。
初見でも流れの読めた『都会はいいぜ』(笑)
都会に戻りたいぜグループと、にゃん太郎を囲む女の子猫グループの立ち位置から、何となく想像できて、見事にその予感を裏切らずにやって下さいました。
ウエストサイド物語。
あの基本陣形が大好きです漣
これは、好みの問題かと思うんですが、【ひろぽ】は定番好きです。
特に基本形を全く無視した、奇を衒ったモノはあまり好みでないんです。
ハラハラ感に堪えられないと申しましょうか。
例えば小説。
推理小説ですら、犯人(出来ればトリックと動機も)知ってからでないと読み出せない。
そんなタイプなんで、『都会はいいぜ』の掛け合いも「よしっきたっ!! 」と嬉しく思いこそすれ、「定番だな……つまらん」とは思わないんですね。
矢っ張り綺麗ですもの。
他にも、一人歌い、二人歌い、それに続き、続きで総コーラスとなるパターン。
もう、完璧でした烈
えぇ。
大好物で御座います。
立て膝。振り返り。立ち上がり等々。
度々一人で「よしこいっ!! おしっきたっ!! 」と興奮しておりました(笑)

えと。
ちょっとシリアスな話。
関さんについてなんですが。
【ひろぽ】の感想。
「芝居が大人しいなぁ……。ちっと物足りん」
【ひろろ】の感想。
「芝居が小さい。カリフォルニア〜を観ていなかったら、舞台だと感覚が狂うのかと思ってしまう程」
で、二人で話し合っていくと。
アンサンブルのバランスに辿り着いた。
結論。
アンサンブルのバランスを取って大人しく抑えたか?
その線で振り返ると納得のいく、不満箇所多数。
そうすると、矢張り。
にゃん十一に中尾隆聖を持ってきて欲しかったと、強く思ってしまう。
今公演で、流石関俊彦と思ったのは、ココでも書いたが、にゃん十一が魚に喰われ、戻ってきてのシーンの後ろ姿。
「君に対して怒っているんだぞっ!!」って芝居をしているんだ。 って語る背中に関俊彦を見ました。
自殺しようとする猫たちを止める、にゃん太郎はもう一つ思い切って欲しかったと残念に思う。
云うまでもなく、合格点は取ってはいるのだが、関俊彦だと思うと、もうワンランク上を見せて欲しかったと、やや不満が残る。
同じように、幕開け(この際、紙芝居はおいといて)の帽子を追う場面。
ここも小さく見えてしまい、物足りない。
その為に、私は敢えてぼやかしたのだと解釈。
だが、願わくば折角の幕開け。
ドンッと大きく関俊彦を見せて欲しかったと、思う。
また、ココの関さんについて、【ひろろ】と話し合ってて限りなく低いが、ない訳じゃない可能性が一つ。
今回、児童を対象とした公演がある。
そして、元々「十一ぴきのネコ」は児童劇である(って、何処だかで見たんだモン……)。
それで、含みを持たせず比較的ストレートな表現でいこうとした。
……。
えぇ。
相当無理矢理なこじつけなのは、重々承知です……。
最初に云い出したときは、【ひろろ】に一蹴されましたモノ……。
「それは、ないだろ」
でも、色々考えていくうちに、限りなく低いがない訳じゃないかも……との結論に。
うぅ〜ん。
矢っ張りアンサンブルのバランスの線が濃いのかしらん?
隆聖さん関さんの二人のシーンはいつもの私達が観たいと思っていた関俊彦なんですよね。
いらない、いらないと云っている紙芝居とか……。

結論。
関にゃん太郎中尾にゃん十一
残りのネコ達を安心感のある役者にした同作品を観てみたい。

補足。
色々と書いていますが、面白かったンです。
また、【ひろぽ】はある意味DCの公演は初めてです。
去年は関さん隆聖さんの二人舞台で、カリフォルニア〜は芯を張ってらしたのは安定した役者さんでしたから。
今回のはどちらかというと、若手公演を観に行く感覚で行ったことは確かです。
細かいことを書き出せば、また止まらなくなっちゃう(笑)
にゃん作老人が、にゃん十一に瓶詰めの手紙を書いているトコとか〜。
隆聖さん関さん止まってるのが見えンのか!?
ルールでしょうがぁ〜。
動くな說
と、頷いたりの動く頭が気持ち悪く苛っとしたのは内緒(笑)
あれは、演出家の責任だと思うんですが?
駄目でなかったのかなぁ? それが真剣に不思議だ……。
ま、それも「若手だから」「おいおい、場数を踏んで覚えていくだろう」と思ってみることにした。

えっと、最後になっちゃいましたが。
カリフォルニア〜で買いだった北山さん。
特に感じたことはありませんでしたが、不可もなくこのまま延びていってくれればいいかな? と。
そして、にゃん次の川島さん。
にゃん太郎・にゃん作老人の次に、安心して観ていられました。

そんなトコかな?
また書き残しに気付いたらダラダラ書くかも。
取り敢えずは、以上【ひろぽ】の感想でした。
Date: 2005/11/26(土)   Category: 関俊彦舞台感想
「十一ぴきのネコ」感想 其の参
昨日に引き続き「十一ぴきのネコ」感想です。
と、その前に。
井上作品の特徴の一つを。
話がどんどん流れていく
井上さん、調べたモノは全部入れなきゃ気が済まないんじゃないか? って勢いで書き込む方。
どんどん、詰め込んでいきます。
その分、どんどん流れていきます。
なのに。
ブツ切れ感がなく、すんなりとストーリーを追っていけるのが井上さんの力なのだとしみじみと感じました。

で。
わざわざ井上作品の特徴をあげた理由。
『話がどんどん流れていく』
これが今回の不満の根底に流れる、紙芝居の不自然さに繋がっていく為でして。
「十一ぴきのネコ」の一貫したテーマは『独りぼっちはイヤだ』。
であると、思われます。
主題になるのが、『仲間』であるのに、ラストの紙芝居によって唐突に『毒』にすり替えられてらしまった。
ソコまでの強い意志を働かせているか否かは(当然の事ながら)不明ではあるが、元・サラリーマンに『毒』というインパクトの強い言葉を喋らせてしまった為に、『毒』を流す人間の生活を考え直そう的なテーマにすり替えられてしまったような印象が強く残ってしまう。
で、それがまた唐突すぎるから気持ち悪さが強くなってしまう。
確かに、猫たちは『毒』に汚染された魚を喰らい、その『毒』によって死に至る。
だが、その死に際は『毒』への恨み節を吐きながらではない。
元々のテーマであると思われる『もう独りではない。仲間がいるんだ』と歌う。
もう 終わるんだ
ひとりぼっちの
かなしい夜は
もう ともだちとあえたから

DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜
より抜粋

この段階で、『毒』の存在は過去の話となり、元の『もう独りではない。仲間がいるんだ』に主題は戻ってきている。
また、作品中で人間に対する恨み節を強く印象づける場面があれば、多少は変わってくる可能性もあるかもしれない。
だが、作品中、人間社会に対する恨み節を強く吐く場面は思い当たらない。
飼い猫が保健所に連れていかれてしまったりの人間に酷い目に遭わされたとする過去持ちはいるが、それを『毒』を作り流す人間社会への恨みととるにはかなりの無理があるのではないか?
その状態で。
唐突に、『毒』である。
「呆気にとられた」と云うのが、素直な感想。
私はこの紙芝居の場面での『毒』に辟易したのだが、【ひろろ】はその前の魚を喰らい苦しむ猫たちの発する『毒』に妙なしつこさを覚えたようで。
で、何故『毒』を前面に出さなければならなかったを考えると『紙芝居』に辿り着く。
そこに持っていく為に、『毒』を前面に押し出さなければならなかったのでは?
で、結局。
「紙芝居要らない」になる。
と、いうことで。
やっとこさ本題。
下を書き出してから急遽、井上作品についての説明が必要では? との【ひろろ】の言葉により付け足したらなんだか長くなっちゃった(笑)


紙芝居と隆聖さんの位置関係から見る、紙芝居は要らないと思う理由 其の弐。
感想 其の弐では最初の紙芝居を芯にして書いていったので、今回はラストの紙芝居。
えと、ココで終演直後の【ひろぽ】と【ひろろ】の会話の再現。
【ひろぽ】「お疲れ様でした」
【ひろろ】「お疲れ様〜」
【ひろぽ】「紙芝居要らない」
【ひろろ】「要らない」
ここから、自宅に戻る迄の間ずっと紙芝居談議でした。
何故、ここまで『紙芝居』にこだわるのか?
既に幾度も書いてますねぇ(笑)
補足補足になってしまうんですが、昨日は最初の紙芝居でしたので、今回はラストの紙芝居。

位置付けが紙芝居の観客(観客席の代表との置き換え可)なのか、紙芝居「十一ぴきのネコ」に絡む存在なのかがはっきりしない元・サラリーマンが居眠りをしてしまい、紙芝居屋に起こされる所から場面は始まる。
居眠りをしてしまい「紙芝居のラストが分からない」と云う。
紙芝居屋は「寝むっちまったんだから、そんなの知るかい」との答え。
彼らの最期は? と問う元・サラリーマンに紙芝居屋が画用紙を渡す。
「そこに思う絵を描け」と。
と、ここで大問題が。
あれだけ毒・毒と騒いでいるのに、どのタイミングでこの台詞が入ったのかが思い出せない。
関さんが、センターで隆聖さんに食ってかかってる姿は覚えているのだが、それが画用紙を渡されるまえであったか、後であったかが曖昧。
食ってかかって、自由に描けで、毒云々と問い掛けたような気がするのだが、どうだたったろ?
また、正確な台詞は覚えてないんですね。
ただ、前にも書いたように呆気にとられて記憶が飛んでる(笑)
唐突だったってコトしか記憶にない。
ま、それで納得しかねる顔で関さんが下前へ。
隆聖さんが、自転車を押しながら上前へ。
自転車の前カゴには猫。
それの頭を撫でながら「にゃん太郎」と。
はっと振り返る、関さん
含みのある顔の隆聖さん
しかも。
思いっ切り、含みのある明かり。
ビームくっきりなクロス。
しかもカット・チェンジ(だった筈……物凄いインパクトだったんですもの〜)。
紙芝居屋=にゃん作老人or紙芝居屋≠にゃん作老人
元・サラリーマン=にゃん太郎or元・サラリーマン≠にゃん太郎
を話すときに殆ど必ず出てくる。
「だって、あのクロスっ!! 」
故に、明確にしないまでも『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』を暗示しているのと違うの〜?
と、なる。

また、紙芝居屋=にゃん作老人と考える理由として下の二つがある。
驪居眠りをしてしまった元・サラリーマンの見ていた夢を理解している節がある。
麗(上の補足説明のような気もするが……)敢えて、猫を「にゃん太郎」と呼ぶ。
これが、さらりと流していたのであれば遊び心とも取れるが、ココの隆聖さんの感じだと多分に含みを感じる。

で、『元・サラリーマン=にゃん太郎』だと考える理由。
驪サラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのか、サラリーマンの夢≠紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのかを考えた場合、流れ的にサラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」である方が自然。
尤も、話途中で眠り込んでしまい夢の中身が紙芝居に引きずられ、紙芝居「十一ぴきのネコ」の後半は元・サラリーマンの創り出した夢であり、『元・サラリーマン=にゃん太郎』ではない。というモノも考えられはするが。
ただし、その可能性は高くはないと思うのだが。

んで、『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』決定打としたのが、先程も書いたクロスと、バックの猫達。
にゃん太郎とにゃん作老人がいない。
この中に、関さん隆聖さんが猫耳・猫尻尾を受け取っての合流であろうと、後から合流の形であろうと、絵のパーツの一つとなれば、彼らと紙芝居屋&元・サラリーマンは別の存在だと納得が出来て関係の整理も出来るのだが。
彼らはいない。
そうすると、どうしても『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』が捨てられず、かと云って決定打もなく、消化不良を起こして。
「結局、紙芝居が邪魔なンじゃん」
に辿り着く。
ただねぇ。
『紙芝居屋=にゃん作老人』だとすると、矢っ張り十一匹と一緒に旅に出ちゃうと辻褄が合わなくなってくるんですよねぇ。
つか、彼を仲間ポジションに置くことに無理があるような気がしてならない。
仲間と云うよりも、彼らの道標であって、遠くから見守っている存在である方がしっくりくる。
つか、じゃないと『紙芝居屋=にゃん作老人』が自分の中で納得できる形で成立しないんですよねぇ。
なら、『紙芝居屋≠にゃん作老人』と考えれば良いんじゃないかって考えも一応は過ぎるんですが……。
それにしては、ラストの紙芝居屋に含みを持たせてるでしょう?
で、悩んでるうちに「大体、紙芝居屋は何の為にいるの? あれは何なのっ!? 」に……。

あっ。
も一つ大きな消化不良を起こす材料があった。
衣装。
にゃん九。
他の猫たちは比較的時代を特定させない作りにしているが、にゃん九が妙に現代的で。
もし、彼が紙芝居「十一ぴきのネコ」が過去の話ではなく、現在進行形での話であった。という象徴なのであれば、うぅ〜んと納得せざるを得ないが、その可能性はあまり高くないんじゃ……。
と、するとね。
矢っ張りあの衣装は消化不良を起こすんですね。

ふぅ。
紙芝居と、にゃん作老人が旅に参加するコトに対する不満理由がまだあった……。
これも割と理由を占めています。
猫たちが次々と死んでいく場面。
クライマックスであっていい筈なのに、尻つぼみ。

毒に侵された猫たちが苦しんでいます。
その時、確かにゃん太郎が「独りでは死なせない」的なコトを云ったと記憶しています。
んで、にゃん十一が独りで死んでいくのはイヤだから歌を歌ってくれ。とせがみ、にゃん太郎はどんな歌がいいか? と問います。
にゃん十一が聞きたいのは、
もう 終わるんだ
ひとりぼっちの
かなしい夜は
もう ともだちとあえたから

DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜
より抜粋
これ。
にゃん太郎ソロからフル・コーラスになります。
その顔は毒からくる苦悶ではなく、独りぼっちでないコトの喜び。
であれば、最期の瞬間は最期の瞬間への驚きへはあっても、苦悶である必要はないと思うんですね。
なんですが、うぅ〜ん。
これは技量なのか、紙芝居の『毒』への布石なのか、苦悶の割合を増やしてしまったように見える。
少なくとも、私には『倖せ』には見えなかった。
んで、関さんのにゃん太郎も十匹のネコを看取りながら、最期の瞬間を迎えます。
ココがまた不満。
仲間を看取り、独り(でも、にゃん作老人が残ってるんですよね……)残されてなお、独りじゃないと歌う。
普通に考えたら、ここをドンッとあげると思うじゃないですかっ!!
それが、割と普通に崩れ伏してしまって……。
宝塚のベルばらのしつこいアンドレの最期の如く、もう一回起きあがり歌うかと期待したんですが……。
ありゃ? 隆聖さんに移っちゃったよ……。
おいおい〜このままぁ?
にゃん作老人も大きな盛り上げなく、死んじゃうし……。
欲求不満。
で、これも紙芝居の所為になる。
ラストであの長さを持ってくるとなると、ココで最後の盛り上がりを持ってくるとキツイかな? とは思います。
だったら、紙芝居いらないじゃんかっ!!
んで、猫たちの最期は歌にそぐわした最期に統一していけばイイんじゃないのぉ!?
あそこって、死んでいく場面ではあるモノの悲劇性はないんじゃないのぉ!?
もう独りで生きていく寂しさを味わうことがなく、ほんわかとしていいんじゃないのぉ!?
紙芝居の件で猫の最期の悲劇性を出してくるから、猫の最期が中途半端になるんじゃ……。
DC版「十一ぴきのネコ」に(紙芝居を無視すれば)悲劇性はないモノと考えています。
ある意味ハッピー・エンド。
【ひろろ】曰く「『白鳥の湖』のジークリードとオデット昇天版ってコトでしょ? 」
それなのに、紙芝居で猫の最期を悲劇であったとするから、「えぇっ!? なにそれっ!! アタシのほんわかした気持ち返してよっ說」となる。
加えて、紙芝居の最後がどうなったと聞く元・サラリーマンに真っ白な画用紙を渡して、君が描きなさい的なことを紙芝居屋が云うから。
猫たちの倖せそうな絵をバックにしてしまう。
と、云うことは。
独りじゃないんだと歌い死んでいった彼らは不幸だってコトか!?
えぇ〜?
だったら、もっと悲劇性を前面に出してのコーラスにしろよ〜說
と、說・令が頭の中を走り回る。
で、回り回って。
結局。
紙芝居要らないんじゃ……。

本っ当に、コレの存在が大きすぎて消化出来なかった。
過去形じゃないや。
まだ消化出来てない……。
幕開きもすっきししなければ、幕切れも……。
あれじゃ、幕切れンよ〜。
せめて紙芝居をもう少しすっきりと流してくれれば。と思います。

そうだ。
にゃん作老人。
オリジナルでは、矢っ張り旅には加わっていなかったんですね。
湖の場所を記した地図を渡してのお留守番。
それであると、しっくりくる。
うぅ〜ん。
隆聖さんを十一に持ってきての二本柱にした方がしまると思うのですが、他キャストとの兼ね合いなのか……。
だから、にゃん作老人に持ってはきたモノの。
オリジナル通りのポジションだと、二本柱が立てられずの苦肉の策だったのかしらん……。
うぅ〜ん。

えぇい。
ついでに、気になった箇所全部書いちゃえ。
で、感想其の四で良かったコト書けばイイや。

にゃん十一。
えぇと誰だ? 伝坂さんか。カリフォルニア〜の時も感じたのですが、今回は役の大きさもあって、ちょっと……。
本人がやりたいことは分かるんですが、キャラに頼りすぎてしまっているかな? と。
にゃん十一、おいしい場所を持って行くんですね。
特にラストのにゃん太郎に歌をせがむシーン。
キャラ頼りが比較的出来ないコト。シリアスであった。キーになる場面であった。
と云うこともあって、技量不足さが目立ってしまったか?
勿論、彼が際立って不足なのではないのですね。
ただ、にゃん十一には少し早かったかな? と。
出来ることなら、隆聖さんで観たかった。
【ひろろ】が納谷悟朗さんから『にゃん十一』が大事なんだと刷り込み(刷り込みの状況はココ参照)された為、それをそのまま【ひろぽ】に刷り込んだ為に、かなりな期待を持っていたのは事実です。
その為、一層厳しく観てしまった可能性も否定できません。
ダブルを組んでいる堀本さんに関しては、観ていないのでノー・コメント(笑)

で。
不満ばかりを述べていないで、いい加減、良かった感想を書きましょうっ!!
これから書きます〜勒
Date: 2005/11/25(金)   Category: 関俊彦舞台感想
「十一ぴきのネコ」感想 其の弐
昨夜【ひろろ】と話してて一応の総感想がまとまりました。

井上作品をやるなら、弄らずマンマで。

で。
【ひろぽ】も【ひろろ】関さんの舞台を観たコトもあり、声仕事の作品からある程度、関さんの技量に対しての安心感からの期待感を持っていたコト。
また、【ひろろ】は演出の柴本さんと仕事をしたコトもあり、演出家としての技量に対しても安心感を持っていました。
無論、井上作品であると云うことも期待感において決して少なくない量を占めていました。
以上を含め、完成度への期待をかなり高い位置においての観劇となったのです。
んで。
何でこんなコトをわざわざ書いてるか。
不完全燃焼な不満はあるんだけど、悪かったって云いたい訳じゃないんだよ〜。
ッてことを明確にしておこうかなぁと……。

で。
いい加減に本題。

昨日の感想其の壱で紙芝居の不必要さを書いていますが、考えれば考えるほど、「結局、紙芝居の所為じゃん」に行き着いてしまうんです。
先ず、関さんの初登場シーン。
紙芝居に興味を持てない子供達が去っていったしまった(恐らく平日の昼の)公園に、サラリーマンらしき人物が座り込んでいる。
それを不思議に思った紙芝居屋が「リストラされたのか? 」と声を掛ければ、肯定される。
なら、紙芝居でも見ないか? と呼び寄せ、客席後方より関さんの登場。
このリストラ客席後方からの登場の二つの要素で、元・サラリーマンが強く印象づけられてしまう。
ただの紙芝居の観客という立場にしては、強い存在感を与えられてしまいました。
また、その結果、紙芝居屋も同様に何らかの意味を持った人物かであるかのように思われる。
実際、私は紙芝居屋がにゃん作老人として、語り部として第三者として、直接は絡まずに話が進むのだと思い込みました。
が、実際は……。
えと、コレについては後でまた書きますね。
取り敢えずは、元・サラリーマンとしての登場から、猫としての登場の関さんについて続けます。
暗転後、オーヴァチュア(曲名は会場で販売されたCDより)が入り、曲あけで猫としての関さん初登場となるのですが。
オーヴァチュアが長い。
紙芝居の件を『物語としての「十一ぴきのネコ」』への導入部とするのであれば、暗転・にゃん太郎登場でよいのでは?
また、紙芝居を『舞台本編としての「十一ぴきのネコ」』への導入部とするのであれば、紙芝居に意味づけを強く持たさず、さらりと流した方が、しまるのではないか?
また、にゃん太郎の登場についてなのであるが。
この登場も物語本編への導入かのようにみえてしまうのである。
帽子を追う絵は、仲間がなく独りで生きる姿なのだと思うのだが、一枚紗を掛けたような不透明感を覚えてしまう。
そのまま、にゃん太郎の場は進行し、次の場。
十匹の猫の集まる場に帽子が、飛んでいき彼らとにゃん太郎が合流したところから、透明になる。
えと。
一度、整理しておきますね。
早い話が。
導入部が三度ある。
驪紙芝居。
麗オーヴァチュア。
黎にゃん太郎の登場の場。
この為に、しつこさ及び、テンションの低下を感じてしまう。

例えば、紙芝居を入れるのであれば。
二通り。
紙芝居から、そのままにゃん太郎登場とし、にゃん太郎も不透明感(不透明感と云うと、綺麗でないモノのような印象だな……。えっと、「輪郭をはっきりと出さないパステル画のような」と云う意味合いだと考えて下さい)を出さずに、物語の中の登場人物『にゃん太郎』を出してしまう。
或いは。
紙芝居屋に呼ばれる元・サラリーマンをあくまで、観客の一人として扱う。
観客席に座る私達の代表としての扱いとする。
つまりは。
導入部ではなくて、前説扱い。
で、あれば。
また感想は変わってきたかも知れない。

紙芝居を切るのであれば。
これまた、二通り。
オーヴァチュア後半に被せて、野良猫代表としての猫。曲終わりで野良猫代表の猫から、『にゃん太郎』への変化。
或いは、オーヴァチュア終わりで『にゃん太郎』としての登場。
で、この紙芝居を切った場合について、もちっと細かく。
ココについての意見が【ひろぽ】と【ひろろ】が分かれました。(意見というか、公演を観ての感想が分かれた為、アプローチの方法も変わってきた)

先ずは、【ひろぽ】。
あれは、にゃん太郎ではなく、独りぼっちの野良猫を表したモノ。
であるから、にゃん太郎の個を出すのではなく、輪郭がはっきりしなくても良いのではないか?
と、云うよりも。
輪郭をはっきりとさせていなかった為に、『にゃん太郎』ではなく、独りぼっちの野良猫を表しているのではないかと受け止められた。
【ひろろ】は。
もっと空元気を前面に出しても良かったのでは?
中途半端に寂しさを出してしまい、欲求不満が残る。
独りぼっちのにゃん太郎へのアプローチの仕方の方法の差なのだが、今回は少々不満が残る。

えと、ここの大きな差は、野良猫代表と取るか、『にゃん太郎』と取るか。です。
【ひろぽ】は野良猫代表ととり、【ひろろ】は『にゃん太郎』と受け止めたために、生じた感想の差でした。
で、ココに問題が一つ。
野良猫代表であるのか、にゃん太郎であるのか。
それを明確にするのを避けたのか、なっちゃったのか、が不明。
で、また気持ち悪さが残る。

もし、アレが関さんが演る、にゃん太郎であるのあれば。
もっと空元気からの寂しさ等の奥行きを見せてくれたのでは? と、どうしても思ってしまう。
その感覚が掴めない役者だとは思えない。
以上の理由から、私は野良猫代表だと捉え、【ひろろ】は欲求不満を覚えた。
ここのところは、柴本さんに訊いてみたいですねぇ。

で。
次いで、紙芝居と隆聖さんの位置関係から見る、紙芝居は要らないと思う理由です。
既に幾度も書いていますが、紙芝居屋と元・サラリーマンの印象付けを強くしてしまったが為に、紙芝居屋=にゃん作老人の感が強くなってしまう。
特に、ラストの紙芝居屋と元・サラリーマンとのやり取りからその印象が強く残されてしまう。
幕開けの紙芝居の位置関係から、『紙芝居』の存在が強くインプットされてしまう。
えぇと。
ここで、一応簡単にセットの説明。
大黒の構成舞台。
客入れは、緞帳はなくセンター前に紙芝居の乗った自転車。
つか。
客入れで『紙芝居』を見せていた。
なんですよ。
これだけ『紙芝居』を前面に出しているんです。
「十一匹のネコ」ってのは、紙芝居であって、それを一緒に観ましょうよ。
と、云っているのに。
何故かそこをサラッと流さずに、元・サラリーマンの存在を主張してくるから混乱が生ずる。
んで。
(コレは終演後の感想ではあるが)ラストの紙芝居屋と元・サラリーマンとのやり取りから、紙芝居屋=にゃん作老人であると思えてならない。
但し。
そうであるならば、にゃん作老人は魚を喰って死んでしまうと辻褄が合わない。
大体、にゃん作老人が十一匹のネコの旅に絡んでくるコトに対しての意味が掴めずにいる。
歌にもあるが、彼らは総勢十二匹の仲間である。
ネコが十一匹。そして夢。
もしも、にゃん作老人を『夢』であると位置付けるのであれば、魚を喰って死んでしまうのは、ますますおかしい。
にゃん作老人が『夢』ではなく、ただの仲間だとすると。
十一匹のネコではなく、十二匹のネコになってしまうのであって、計算が合わない。
それとも、彼は仲間外れなのか?
それは何故?
年寄りだから?
それはどう考えても変だろ?
と、すると。
結局。
にゃん作老人の存在理由が……。

と、不満其の参に続く。
ので。
また明日。
Date: 2005/11/25(金)   Category: 関俊彦舞台感想
「十一ぴきのネコ」感想 其の壱
【ひろろ】は当日捌きでB列20番。
A列を潰していたので、最前列。
ですが、比較的観やすかったようですわ。

で。

一言感想。
観て良かったか? 観なきゃ良かったと思ったか? と問われれば。
「観て良かった」
何ですが。

不完全燃焼

微妙に不満。

不満其の壱。
ラストの紙芝居が邪魔。
その理由として、毒云々がしつこいか?
また、最後の最後で弛みになってしまったか?
つか。
最っ初から紙芝居の必要性が見えず、終わりまで見えない。
邪魔に感じこそすれ、必要性は……。
もし、入れるのであれば、不満其の弐に繋がるのでるが、にゃん作老人は語り部として外野に置いて欲しい。
で、あれば。
ラストの紙芝居に戻ったところで、紙芝居のおじさんが猫を撫でて「にゃん太郎」と呼びかけるコトも、意味ありげにテーマソングを口ずさむコトも、リストラされたサラリーマン(【ひろぽ】は秘かに、にゃん太郎の現在の姿と理解)とのラストのクロスも一応は繋がる。
等々、書きたいコトはあるモノの、今日は考えることが多すぎて、取り敢えずは、この問題はココで。

不満其の弐。
にゃん作老人は外において欲しかったかなぁ。
極論なんですが、にゃん作老人を外して、にゃん十一に隆聖さんを持ってきた方が……。
えぇと。
不満其の参に被ってしまうんですが、伝坂にゃん十一がきつかった……。
にゃん十一はかなりおいしいと思うんですが、伝坂さんは少々台詞がすべりがちになるのがどぉも……。

不満其の参。
伝坂にゃん十一。
おいしいポジションだったが為に技量不足が目立ってしまい……。
ラスト独りで逝きたくない。独りぼっちじゃないンだと歌ってくれとせがむのがキツイなぁ。
にゃん十一の奥行きを出せたなら違ってきたからも知れないが、現在ではソコまでの技量がないモノと思われる。

不満其の四。
えっ?! 関さん……もちっと……。
にゃん太郎の姿が見えてこない。
今回、関さんで一押しなのは、にゃん十一が魚に喰われ、戻ってきてのシーンの後ろ姿。
怒りの背中が素敵


が、トータルしての不満でしょうか?

でもですね。

ココ重要。

面白かったんです!! 

が。

えぇと。
またダラダラと、明日以降落ち着いて書きますね。
取り敢えず、今日は新鮮な感想をば……。
Date: 2005/11/22(火)   Category: 舞台全般
トチリ席
今回の「十一ぴきのネコ」座席はG列13番。
咄嗟に頭に浮かんだのは、「トチリのセンター
工学院時代に教えられ。
それ以降、芝居を観るに良い席だとインプットされた「トチリ席」。
いろはにほへとちりぬるを……。
ABCDEFGHIJK……。
12345678910……。
んで。
次に浮かんだのは。
「演出家席の可能性高っ
別にだからどうだってコトは、全く、全ッ然ないんですが、何となく嬉しいじゃないですか(笑)
要は、観やすい席だと云う事だけなんですが。
そーいや、前回はH列の一番下とG列の上から一個内。
列的には申し分なかったですわ。
尤も、かなり端に寄ってしまったので平行ピンよりはマシと言い聞かせ乗り越えました(笑)
カリフォルニア〜はB列で関さんを堪能するには良かったですが、芝居を観るには矢張り前過ぎて少々物足りなかったかな? と。
芝居を楽しむには矢張り、10列前後が観やすいかと思われる。
但し。
芝居に適した小屋の場合という注釈が必要かな?
池袋の小ホールは間口は五間。
思うに五〜六間間口であれば10列前後が観やすいのか?
これが八〜十間になるともうちっと奥の方が良いような気がしないでもないんですが。
どうなんでしょ?
よくよく考えたら。
【ひろぽ】は客席で舞台を観た回数よりも、圧倒的に袖かピン・ルームが多いわけで……。
自分で比べるにも、経験値が殆どないや(笑)
ついでに間口が八間から十間の小屋ほうが馴染みが深い。
なので、感覚なんですが。
矢っ張り、間口が広がるとその分、奥に行った方が全体は捉えやすいと思います。
あとは裸眼とオペラ・グラスとの兼ね合い?
及び、全体像を取るか、個人の表情を取るかか。
もう一つ大事なことは。
希望の席が押さえられるか。
コレが、一番の問題か? (笑)
列はよくても、下上センターの差もありましょうし。
ソーユー意味でも、舞台は楽しい
一種の賭事っすね(笑)
Date: 2005/11/20(日)   Category: 関俊彦
関さんの猫耳に萌〜って……
ほぼ一ヶ月ぶりの記事がコレかい(笑)
速水さんの日記に
「十一ぴきのネコ」の観に行かれた速水さん
関さん隆聖さんの猫耳に「ちょっと萌〜」だそうで。
可愛いお人だぁ。
【ひろぽ】も24日に行きます。
【ひろろ】もOFF決定なので、当日捌きを信じて行きます。
楽しみ烈