「十一ぴきのネコ」感想 其の寿
だって、ほら。観光バスも4号車は寿号車になるから……。
やっとこさ、良かった感想だし……。
本日二度目の感想。
一番、感動したのは。
フォロー。
恐らく下ピンを出していた方だと思うのですが、本っ当に気持ちのいいタイミングでピンを出してくれる。
「そこでフルっ!! 」「ゆっくりアウト、スタンバイ。どうぞ」「カット・アウト、GO!! 」等々。
本っ当に、絶妙のタイミングで物凄い嬉しかったンです。
まるで【ひろぽ】自身が関さんをフォローしているかのような錯覚に陥ってしまうほど、自分が心の中で出しているQと重なって。
本っ当に、気持ちよかったです。
幕間休憩に入っての第一声が「ピンっ!! 凄い気持ちイイっ!! 」でした。
一服しながらは「この作品だったら、マチソワ二回公演の長旅でも行くっ!! 」と興奮して宣言してるし……。
と、明かりのコトをつらつら書いても……なので。
作品感想に行きます(笑)
柴本さんの振りは安心していられて好きですね。
群舞も定番と云ってしまえば、それまでですが、次はコウ来て欲しいっ!! という希望を殆ど叶えて貰っていると思います。
『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』であるとか、『こんど生まれてくるときはのレクイエム』。
初見でも流れの読めた『都会はいいぜ』(笑)
都会に戻りたいぜグループと、にゃん太郎を囲む女の子猫グループの立ち位置から、何となく想像できて、見事にその予感を裏切らずにやって下さいました。
ウエストサイド物語。
あの基本陣形が大好きです漣
これは、好みの問題かと思うんですが、【ひろぽ】は定番好きです。
特に基本形を全く無視した、奇を衒ったモノはあまり好みでないんです。
ハラハラ感に堪えられないと申しましょうか。
例えば小説。
推理小説ですら、犯人(出来ればトリックと動機も)知ってからでないと読み出せない。
そんなタイプなんで、『都会はいいぜ』の掛け合いも「よしっきたっ!! 」と嬉しく思いこそすれ、「定番だな……つまらん」とは思わないんですね。
矢っ張り綺麗ですもの。
他にも、一人歌い、二人歌い、それに続き、続きで総コーラスとなるパターン。
もう、完璧でした烈
えぇ。
大好物で御座います。
立て膝。振り返り。立ち上がり等々。
度々一人で「よしこいっ!! おしっきたっ!! 」と興奮しておりました(笑)
えと。
ちょっとシリアスな話。
関さんについてなんですが。
【ひろぽ】の感想。
「芝居が大人しいなぁ……。ちっと物足りん」
【ひろろ】の感想。
「芝居が小さい。カリフォルニア〜を観ていなかったら、舞台だと感覚が狂うのかと思ってしまう程」
で、二人で話し合っていくと。
アンサンブルのバランスに辿り着いた。
結論。
アンサンブルのバランスを取って大人しく抑えたか?
その線で振り返ると納得のいく、不満箇所多数。
そうすると、矢張り。
にゃん十一に中尾隆聖を持ってきて欲しかったと、強く思ってしまう。
今公演で、流石関俊彦と思ったのは、ココでも書いたが、にゃん十一が魚に喰われ、戻ってきてのシーンの後ろ姿。
「君に対して怒っているんだぞっ!!」って芝居をしているんだ。 って語る背中に関俊彦を見ました。
自殺しようとする猫たちを止める、にゃん太郎はもう一つ思い切って欲しかったと残念に思う。
云うまでもなく、合格点は取ってはいるのだが、関俊彦だと思うと、もうワンランク上を見せて欲しかったと、やや不満が残る。
同じように、幕開け(この際、紙芝居はおいといて)の帽子を追う場面。
ここも小さく見えてしまい、物足りない。
その為に、私は敢えてぼやかしたのだと解釈。
だが、願わくば折角の幕開け。
ドンッと大きく関俊彦を見せて欲しかったと、思う。
また、ココの関さんについて、【ひろろ】と話し合ってて限りなく低いが、ない訳じゃない可能性が一つ。
今回、児童を対象とした公演がある。
そして、元々「十一ぴきのネコ」は児童劇である(って、何処だかで見たんだモン……)。
それで、含みを持たせず比較的ストレートな表現でいこうとした。
……。
えぇ。
相当無理矢理なこじつけなのは、重々承知です……。
最初に云い出したときは、【ひろろ】に一蹴されましたモノ……。
「それは、ないだろ」
でも、色々考えていくうちに、限りなく低いがない訳じゃないかも……との結論に。
うぅ〜ん。
矢っ張りアンサンブルのバランスの線が濃いのかしらん?
隆聖さんと関さんの二人のシーンはいつもの私達が観たいと思っていた関俊彦なんですよね。
いらない、いらないと云っている紙芝居とか……。
結論。
関にゃん太郎中尾にゃん十一。
残りのネコ達を安心感のある役者にした同作品を観てみたい。
補足。
色々と書いていますが、面白かったンです。
また、【ひろぽ】はある意味DCの公演は初めてです。
去年は関さんと隆聖さんの二人舞台で、カリフォルニア〜は芯を張ってらしたのは安定した役者さんでしたから。
今回のはどちらかというと、若手公演を観に行く感覚で行ったことは確かです。
細かいことを書き出せば、また止まらなくなっちゃう(笑)
にゃん作老人が、にゃん十一に瓶詰めの手紙を書いているトコとか〜。
隆聖さん、関さん止まってるのが見えンのか!?
ルールでしょうがぁ〜。
動くな說
と、頷いたりの動く頭が気持ち悪く苛っとしたのは内緒(笑)
あれは、演出家の責任だと思うんですが?
駄目でなかったのかなぁ? それが真剣に不思議だ……。
ま、それも「若手だから」「おいおい、場数を踏んで覚えていくだろう」と思ってみることにした。
えっと、最後になっちゃいましたが。
カリフォルニア〜で買いだった北山さん。
特に感じたことはありませんでしたが、不可もなくこのまま延びていってくれればいいかな? と。
そして、にゃん次の川島さん。
にゃん太郎・にゃん作老人の次に、安心して観ていられました。
そんなトコかな?
また書き残しに気付いたらダラダラ書くかも。
取り敢えずは、以上【ひろぽ】の感想でした。
やっとこさ、良かった感想だし……。
本日二度目の感想。
一番、感動したのは。
フォロー。
恐らく下ピンを出していた方だと思うのですが、本っ当に気持ちのいいタイミングでピンを出してくれる。
「そこでフルっ!! 」「ゆっくりアウト、スタンバイ。どうぞ」「カット・アウト、GO!! 」等々。
本っ当に、絶妙のタイミングで物凄い嬉しかったンです。
まるで【ひろぽ】自身が関さんをフォローしているかのような錯覚に陥ってしまうほど、自分が心の中で出しているQと重なって。
本っ当に、気持ちよかったです。
幕間休憩に入っての第一声が「ピンっ!! 凄い気持ちイイっ!! 」でした。
一服しながらは「この作品だったら、マチソワ二回公演の長旅でも行くっ!! 」と興奮して宣言してるし……。
と、明かりのコトをつらつら書いても……なので。
作品感想に行きます(笑)
柴本さんの振りは安心していられて好きですね。
群舞も定番と云ってしまえば、それまでですが、次はコウ来て欲しいっ!! という希望を殆ど叶えて貰っていると思います。
『ぼくの主人は〜6匹の物語〜』であるとか、『こんど生まれてくるときはのレクイエム』。
初見でも流れの読めた『都会はいいぜ』(笑)
都会に戻りたいぜグループと、にゃん太郎を囲む女の子猫グループの立ち位置から、何となく想像できて、見事にその予感を裏切らずにやって下さいました。
ウエストサイド物語。
あの基本陣形が大好きです漣
これは、好みの問題かと思うんですが、【ひろぽ】は定番好きです。
特に基本形を全く無視した、奇を衒ったモノはあまり好みでないんです。
ハラハラ感に堪えられないと申しましょうか。
例えば小説。
推理小説ですら、犯人(出来ればトリックと動機も)知ってからでないと読み出せない。
そんなタイプなんで、『都会はいいぜ』の掛け合いも「よしっきたっ!! 」と嬉しく思いこそすれ、「定番だな……つまらん」とは思わないんですね。
矢っ張り綺麗ですもの。
他にも、一人歌い、二人歌い、それに続き、続きで総コーラスとなるパターン。
もう、完璧でした烈
えぇ。
大好物で御座います。
立て膝。振り返り。立ち上がり等々。
度々一人で「よしこいっ!! おしっきたっ!! 」と興奮しておりました(笑)
えと。
ちょっとシリアスな話。
関さんについてなんですが。
【ひろぽ】の感想。
「芝居が大人しいなぁ……。ちっと物足りん」
【ひろろ】の感想。
「芝居が小さい。カリフォルニア〜を観ていなかったら、舞台だと感覚が狂うのかと思ってしまう程」
で、二人で話し合っていくと。
アンサンブルのバランスに辿り着いた。
結論。
アンサンブルのバランスを取って大人しく抑えたか?
その線で振り返ると納得のいく、不満箇所多数。
そうすると、矢張り。
にゃん十一に中尾隆聖を持ってきて欲しかったと、強く思ってしまう。
今公演で、流石関俊彦と思ったのは、ココでも書いたが、にゃん十一が魚に喰われ、戻ってきてのシーンの後ろ姿。
「君に対して怒っているんだぞっ!!」って芝居をしているんだ。 って語る背中に関俊彦を見ました。
自殺しようとする猫たちを止める、にゃん太郎はもう一つ思い切って欲しかったと残念に思う。
云うまでもなく、合格点は取ってはいるのだが、関俊彦だと思うと、もうワンランク上を見せて欲しかったと、やや不満が残る。
同じように、幕開け(この際、紙芝居はおいといて)の帽子を追う場面。
ここも小さく見えてしまい、物足りない。
その為に、私は敢えてぼやかしたのだと解釈。
だが、願わくば折角の幕開け。
ドンッと大きく関俊彦を見せて欲しかったと、思う。
また、ココの関さんについて、【ひろろ】と話し合ってて限りなく低いが、ない訳じゃない可能性が一つ。
今回、児童を対象とした公演がある。
そして、元々「十一ぴきのネコ」は児童劇である(って、何処だかで見たんだモン……)。
それで、含みを持たせず比較的ストレートな表現でいこうとした。
……。
えぇ。
相当無理矢理なこじつけなのは、重々承知です……。
最初に云い出したときは、【ひろろ】に一蹴されましたモノ……。
「それは、ないだろ」
でも、色々考えていくうちに、限りなく低いがない訳じゃないかも……との結論に。
うぅ〜ん。
矢っ張りアンサンブルのバランスの線が濃いのかしらん?
隆聖さんと関さんの二人のシーンはいつもの私達が観たいと思っていた関俊彦なんですよね。
いらない、いらないと云っている紙芝居とか……。
結論。
関にゃん太郎中尾にゃん十一。
残りのネコ達を安心感のある役者にした同作品を観てみたい。
補足。
色々と書いていますが、面白かったンです。
また、【ひろぽ】はある意味DCの公演は初めてです。
去年は関さんと隆聖さんの二人舞台で、カリフォルニア〜は芯を張ってらしたのは安定した役者さんでしたから。
今回のはどちらかというと、若手公演を観に行く感覚で行ったことは確かです。
細かいことを書き出せば、また止まらなくなっちゃう(笑)
にゃん作老人が、にゃん十一に瓶詰めの手紙を書いているトコとか〜。
隆聖さん、関さん止まってるのが見えンのか!?
ルールでしょうがぁ〜。
動くな說
と、頷いたりの動く頭が気持ち悪く苛っとしたのは内緒(笑)
あれは、演出家の責任だと思うんですが?
駄目でなかったのかなぁ? それが真剣に不思議だ……。
ま、それも「若手だから」「おいおい、場数を踏んで覚えていくだろう」と思ってみることにした。
えっと、最後になっちゃいましたが。
カリフォルニア〜で買いだった北山さん。
特に感じたことはありませんでしたが、不可もなくこのまま延びていってくれればいいかな? と。
そして、にゃん次の川島さん。
にゃん太郎・にゃん作老人の次に、安心して観ていられました。
そんなトコかな?
また書き残しに気付いたらダラダラ書くかも。
取り敢えずは、以上【ひろぽ】の感想でした。
「十一ぴきのネコ」感想 其の参
昨日に引き続き「十一ぴきのネコ」感想です。
と、その前に。
井上作品の特徴の一つを。
話がどんどん流れていく
井上さん、調べたモノは全部入れなきゃ気が済まないんじゃないか? って勢いで書き込む方。
どんどん、詰め込んでいきます。
その分、どんどん流れていきます。
なのに。
ブツ切れ感がなく、すんなりとストーリーを追っていけるのが井上さんの力なのだとしみじみと感じました。
で。
わざわざ井上作品の特徴をあげた理由。
『話がどんどん流れていく』
これが今回の不満の根底に流れる、紙芝居の不自然さに繋がっていく為でして。
「十一ぴきのネコ」の一貫したテーマは『独りぼっちはイヤだ』。
であると、思われます。
主題になるのが、『仲間』であるのに、ラストの紙芝居によって唐突に『毒』にすり替えられてらしまった。
ソコまでの強い意志を働かせているか否かは(当然の事ながら)不明ではあるが、元・サラリーマンに『毒』というインパクトの強い言葉を喋らせてしまった為に、『毒』を流す人間の生活を考え直そう的なテーマにすり替えられてしまったような印象が強く残ってしまう。
で、それがまた唐突すぎるから気持ち悪さが強くなってしまう。
確かに、猫たちは『毒』に汚染された魚を喰らい、その『毒』によって死に至る。
だが、その死に際は『毒』への恨み節を吐きながらではない。
元々のテーマであると思われる『もう独りではない。仲間がいるんだ』と歌う。
この段階で、『毒』の存在は過去の話となり、元の『もう独りではない。仲間がいるんだ』に主題は戻ってきている。
また、作品中で人間に対する恨み節を強く印象づける場面があれば、多少は変わってくる可能性もあるかもしれない。
だが、作品中、人間社会に対する恨み節を強く吐く場面は思い当たらない。
飼い猫が保健所に連れていかれてしまったりの人間に酷い目に遭わされたとする過去持ちはいるが、それを『毒』を作り流す人間社会への恨みととるにはかなりの無理があるのではないか?
その状態で。
唐突に、『毒』である。
「呆気にとられた」と云うのが、素直な感想。
私はこの紙芝居の場面での『毒』に辟易したのだが、【ひろろ】はその前の魚を喰らい苦しむ猫たちの発する『毒』に妙なしつこさを覚えたようで。
で、何故『毒』を前面に出さなければならなかったを考えると『紙芝居』に辿り着く。
そこに持っていく為に、『毒』を前面に押し出さなければならなかったのでは?
で、結局。
「紙芝居要らない」になる。
と、いうことで。
やっとこさ本題。
下を書き出してから急遽、井上作品についての説明が必要では? との【ひろろ】の言葉により付け足したらなんだか長くなっちゃった(笑)
紙芝居と隆聖さんの位置関係から見る、紙芝居は要らないと思う理由 其の弐。
感想 其の弐では最初の紙芝居を芯にして書いていったので、今回はラストの紙芝居。
えと、ココで終演直後の【ひろぽ】と【ひろろ】の会話の再現。
【ひろぽ】「お疲れ様でした」
【ひろろ】「お疲れ様〜」
【ひろぽ】「紙芝居要らない」
【ひろろ】「要らない」
ここから、自宅に戻る迄の間ずっと紙芝居談議でした。
何故、ここまで『紙芝居』にこだわるのか?
既に幾度も書いてますねぇ(笑)
補足補足になってしまうんですが、昨日は最初の紙芝居でしたので、今回はラストの紙芝居。
位置付けが紙芝居の観客(観客席の代表との置き換え可)なのか、紙芝居「十一ぴきのネコ」に絡む存在なのかがはっきりしない元・サラリーマンが居眠りをしてしまい、紙芝居屋に起こされる所から場面は始まる。
居眠りをしてしまい「紙芝居のラストが分からない」と云う。
紙芝居屋は「寝むっちまったんだから、そんなの知るかい」との答え。
彼らの最期は? と問う元・サラリーマンに紙芝居屋が画用紙を渡す。
「そこに思う絵を描け」と。
と、ここで大問題が。
あれだけ毒・毒と騒いでいるのに、どのタイミングでこの台詞が入ったのかが思い出せない。
関さんが、センターで隆聖さんに食ってかかってる姿は覚えているのだが、それが画用紙を渡されるまえであったか、後であったかが曖昧。
食ってかかって、自由に描けで、毒云々と問い掛けたような気がするのだが、どうだたったろ?
また、正確な台詞は覚えてないんですね。
ただ、前にも書いたように呆気にとられて記憶が飛んでる(笑)
唐突だったってコトしか記憶にない。
ま、それで納得しかねる顔で関さんが下前へ。
隆聖さんが、自転車を押しながら上前へ。
自転車の前カゴには猫。
それの頭を撫でながら「にゃん太郎」と。
はっと振り返る、関さん。
含みのある顔の隆聖さん。
しかも。
思いっ切り、含みのある明かり。
ビームくっきりなクロス。
しかもカット・チェンジ(だった筈……物凄いインパクトだったんですもの〜)。
紙芝居屋=にゃん作老人or紙芝居屋≠にゃん作老人
元・サラリーマン=にゃん太郎or元・サラリーマン≠にゃん太郎
を話すときに殆ど必ず出てくる。
「だって、あのクロスっ!! 」
故に、明確にしないまでも『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』を暗示しているのと違うの〜?
と、なる。
また、紙芝居屋=にゃん作老人と考える理由として下の二つがある。
驪居眠りをしてしまった元・サラリーマンの見ていた夢を理解している節がある。
麗(上の補足説明のような気もするが……)敢えて、猫を「にゃん太郎」と呼ぶ。
これが、さらりと流していたのであれば遊び心とも取れるが、ココの隆聖さんの感じだと多分に含みを感じる。
で、『元・サラリーマン=にゃん太郎』だと考える理由。
驪サラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのか、サラリーマンの夢≠紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのかを考えた場合、流れ的にサラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」である方が自然。
尤も、話途中で眠り込んでしまい夢の中身が紙芝居に引きずられ、紙芝居「十一ぴきのネコ」の後半は元・サラリーマンの創り出した夢であり、『元・サラリーマン=にゃん太郎』ではない。というモノも考えられはするが。
ただし、その可能性は高くはないと思うのだが。
んで、『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』決定打としたのが、先程も書いたクロスと、バックの猫達。
にゃん太郎とにゃん作老人がいない。
この中に、関さんと隆聖さんが猫耳・猫尻尾を受け取っての合流であろうと、後から合流の形であろうと、絵のパーツの一つとなれば、彼らと紙芝居屋&元・サラリーマンは別の存在だと納得が出来て関係の整理も出来るのだが。
彼らはいない。
そうすると、どうしても『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』が捨てられず、かと云って決定打もなく、消化不良を起こして。
「結局、紙芝居が邪魔なンじゃん」
に辿り着く。
ただねぇ。
『紙芝居屋=にゃん作老人』だとすると、矢っ張り十一匹と一緒に旅に出ちゃうと辻褄が合わなくなってくるんですよねぇ。
つか、彼を仲間ポジションに置くことに無理があるような気がしてならない。
仲間と云うよりも、彼らの道標であって、遠くから見守っている存在である方がしっくりくる。
つか、じゃないと『紙芝居屋=にゃん作老人』が自分の中で納得できる形で成立しないんですよねぇ。
なら、『紙芝居屋≠にゃん作老人』と考えれば良いんじゃないかって考えも一応は過ぎるんですが……。
それにしては、ラストの紙芝居屋に含みを持たせてるでしょう?
で、悩んでるうちに「大体、紙芝居屋は何の為にいるの? あれは何なのっ!? 」に……。
あっ。
も一つ大きな消化不良を起こす材料があった。
衣装。
にゃん九。
他の猫たちは比較的時代を特定させない作りにしているが、にゃん九が妙に現代的で。
もし、彼が紙芝居「十一ぴきのネコ」が過去の話ではなく、現在進行形での話であった。という象徴なのであれば、うぅ〜んと納得せざるを得ないが、その可能性はあまり高くないんじゃ……。
と、するとね。
矢っ張りあの衣装は消化不良を起こすんですね。
ふぅ。
紙芝居と、にゃん作老人が旅に参加するコトに対する不満理由がまだあった……。
これも割と理由を占めています。
猫たちが次々と死んでいく場面。
クライマックスであっていい筈なのに、尻つぼみ。
毒に侵された猫たちが苦しんでいます。
その時、確かにゃん太郎が「独りでは死なせない」的なコトを云ったと記憶しています。
んで、にゃん十一が独りで死んでいくのはイヤだから歌を歌ってくれ。とせがみ、にゃん太郎はどんな歌がいいか? と問います。
にゃん十一が聞きたいのは、
にゃん太郎ソロからフル・コーラスになります。
その顔は毒からくる苦悶ではなく、独りぼっちでないコトの喜び。
であれば、最期の瞬間は最期の瞬間への驚きへはあっても、苦悶である必要はないと思うんですね。
なんですが、うぅ〜ん。
これは技量なのか、紙芝居の『毒』への布石なのか、苦悶の割合を増やしてしまったように見える。
少なくとも、私には『倖せ』には見えなかった。
んで、関さんのにゃん太郎も十匹のネコを看取りながら、最期の瞬間を迎えます。
ココがまた不満。
仲間を看取り、独り(でも、にゃん作老人が残ってるんですよね……)残されてなお、独りじゃないと歌う。
普通に考えたら、ここをドンッとあげると思うじゃないですかっ!!
それが、割と普通に崩れ伏してしまって……。
宝塚のベルばらのしつこいアンドレの最期の如く、もう一回起きあがり歌うかと期待したんですが……。
ありゃ? 隆聖さんに移っちゃったよ……。
おいおい〜このままぁ?
にゃん作老人も大きな盛り上げなく、死んじゃうし……。
欲求不満。
で、これも紙芝居の所為になる。
ラストであの長さを持ってくるとなると、ココで最後の盛り上がりを持ってくるとキツイかな? とは思います。
だったら、紙芝居いらないじゃんかっ!!
んで、猫たちの最期は歌にそぐわした最期に統一していけばイイんじゃないのぉ!?
あそこって、死んでいく場面ではあるモノの悲劇性はないんじゃないのぉ!?
もう独りで生きていく寂しさを味わうことがなく、ほんわかとしていいんじゃないのぉ!?
紙芝居の件で猫の最期の悲劇性を出してくるから、猫の最期が中途半端になるんじゃ……。
DC版「十一ぴきのネコ」に(紙芝居を無視すれば)悲劇性はないモノと考えています。
ある意味ハッピー・エンド。
【ひろろ】曰く「『白鳥の湖』のジークリードとオデット昇天版ってコトでしょ? 」
それなのに、紙芝居で猫の最期を悲劇であったとするから、「えぇっ!? なにそれっ!! アタシのほんわかした気持ち返してよっ說」となる。
加えて、紙芝居の最後がどうなったと聞く元・サラリーマンに真っ白な画用紙を渡して、君が描きなさい的なことを紙芝居屋が云うから。
猫たちの倖せそうな絵をバックにしてしまう。
と、云うことは。
独りじゃないんだと歌い死んでいった彼らは不幸だってコトか!?
えぇ〜?
だったら、もっと悲劇性を前面に出してのコーラスにしろよ〜說
と、說・令が頭の中を走り回る。
で、回り回って。
結局。
紙芝居要らないんじゃ……。
本っ当に、コレの存在が大きすぎて消化出来なかった。
過去形じゃないや。
まだ消化出来てない……。
幕開きもすっきししなければ、幕切れも……。
あれじゃ、幕切れンよ〜。
せめて紙芝居をもう少しすっきりと流してくれれば。と思います。
そうだ。
にゃん作老人。
オリジナルでは、矢っ張り旅には加わっていなかったんですね。
湖の場所を記した地図を渡してのお留守番。
それであると、しっくりくる。
うぅ〜ん。
隆聖さんを十一に持ってきての二本柱にした方がしまると思うのですが、他キャストとの兼ね合いなのか……。
だから、にゃん作老人に持ってはきたモノの。
オリジナル通りのポジションだと、二本柱が立てられずの苦肉の策だったのかしらん……。
うぅ〜ん。
えぇい。
ついでに、気になった箇所全部書いちゃえ。
で、感想其の四で良かったコト書けばイイや。
にゃん十一。
えぇと誰だ? 伝坂さんか。カリフォルニア〜の時も感じたのですが、今回は役の大きさもあって、ちょっと……。
本人がやりたいことは分かるんですが、キャラに頼りすぎてしまっているかな? と。
にゃん十一、おいしい場所を持って行くんですね。
特にラストのにゃん太郎に歌をせがむシーン。
キャラ頼りが比較的出来ないコト。シリアスであった。キーになる場面であった。
と云うこともあって、技量不足さが目立ってしまったか?
勿論、彼が際立って不足なのではないのですね。
ただ、にゃん十一には少し早かったかな? と。
出来ることなら、隆聖さんで観たかった。
【ひろろ】が納谷悟朗さんから『にゃん十一』が大事なんだと刷り込み(刷り込みの状況はココ参照)された為、それをそのまま【ひろぽ】に刷り込んだ為に、かなりな期待を持っていたのは事実です。
その為、一層厳しく観てしまった可能性も否定できません。
ダブルを組んでいる堀本さんに関しては、観ていないのでノー・コメント(笑)
で。
不満ばかりを述べていないで、いい加減、良かった感想を書きましょうっ!!
これから書きます〜勒
と、その前に。
井上作品の特徴の一つを。
話がどんどん流れていく
井上さん、調べたモノは全部入れなきゃ気が済まないんじゃないか? って勢いで書き込む方。
どんどん、詰め込んでいきます。
その分、どんどん流れていきます。
なのに。
ブツ切れ感がなく、すんなりとストーリーを追っていけるのが井上さんの力なのだとしみじみと感じました。
で。
わざわざ井上作品の特徴をあげた理由。
『話がどんどん流れていく』
これが今回の不満の根底に流れる、紙芝居の不自然さに繋がっていく為でして。
「十一ぴきのネコ」の一貫したテーマは『独りぼっちはイヤだ』。
であると、思われます。
主題になるのが、『仲間』であるのに、ラストの紙芝居によって唐突に『毒』にすり替えられてらしまった。
ソコまでの強い意志を働かせているか否かは(当然の事ながら)不明ではあるが、元・サラリーマンに『毒』というインパクトの強い言葉を喋らせてしまった為に、『毒』を流す人間の生活を考え直そう的なテーマにすり替えられてしまったような印象が強く残ってしまう。
で、それがまた唐突すぎるから気持ち悪さが強くなってしまう。
確かに、猫たちは『毒』に汚染された魚を喰らい、その『毒』によって死に至る。
だが、その死に際は『毒』への恨み節を吐きながらではない。
元々のテーマであると思われる『もう独りではない。仲間がいるんだ』と歌う。
もう 終わるんだ
ひとりぼっちの
かなしい夜は
もう ともだちとあえたから
DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜より抜粋
この段階で、『毒』の存在は過去の話となり、元の『もう独りではない。仲間がいるんだ』に主題は戻ってきている。
また、作品中で人間に対する恨み節を強く印象づける場面があれば、多少は変わってくる可能性もあるかもしれない。
だが、作品中、人間社会に対する恨み節を強く吐く場面は思い当たらない。
飼い猫が保健所に連れていかれてしまったりの人間に酷い目に遭わされたとする過去持ちはいるが、それを『毒』を作り流す人間社会への恨みととるにはかなりの無理があるのではないか?
その状態で。
唐突に、『毒』である。
「呆気にとられた」と云うのが、素直な感想。
私はこの紙芝居の場面での『毒』に辟易したのだが、【ひろろ】はその前の魚を喰らい苦しむ猫たちの発する『毒』に妙なしつこさを覚えたようで。
で、何故『毒』を前面に出さなければならなかったを考えると『紙芝居』に辿り着く。
そこに持っていく為に、『毒』を前面に押し出さなければならなかったのでは?
で、結局。
「紙芝居要らない」になる。
と、いうことで。
やっとこさ本題。
下を書き出してから急遽、井上作品についての説明が必要では? との【ひろろ】の言葉により付け足したらなんだか長くなっちゃった(笑)
紙芝居と隆聖さんの位置関係から見る、紙芝居は要らないと思う理由 其の弐。
感想 其の弐では最初の紙芝居を芯にして書いていったので、今回はラストの紙芝居。
えと、ココで終演直後の【ひろぽ】と【ひろろ】の会話の再現。
【ひろぽ】「お疲れ様でした」
【ひろろ】「お疲れ様〜」
【ひろぽ】「紙芝居要らない」
【ひろろ】「要らない」
ここから、自宅に戻る迄の間ずっと紙芝居談議でした。
何故、ここまで『紙芝居』にこだわるのか?
既に幾度も書いてますねぇ(笑)
補足補足になってしまうんですが、昨日は最初の紙芝居でしたので、今回はラストの紙芝居。
位置付けが紙芝居の観客(観客席の代表との置き換え可)なのか、紙芝居「十一ぴきのネコ」に絡む存在なのかがはっきりしない元・サラリーマンが居眠りをしてしまい、紙芝居屋に起こされる所から場面は始まる。
居眠りをしてしまい「紙芝居のラストが分からない」と云う。
紙芝居屋は「寝むっちまったんだから、そんなの知るかい」との答え。
彼らの最期は? と問う元・サラリーマンに紙芝居屋が画用紙を渡す。
「そこに思う絵を描け」と。
と、ここで大問題が。
あれだけ毒・毒と騒いでいるのに、どのタイミングでこの台詞が入ったのかが思い出せない。
関さんが、センターで隆聖さんに食ってかかってる姿は覚えているのだが、それが画用紙を渡されるまえであったか、後であったかが曖昧。
食ってかかって、自由に描けで、毒云々と問い掛けたような気がするのだが、どうだたったろ?
また、正確な台詞は覚えてないんですね。
ただ、前にも書いたように呆気にとられて記憶が飛んでる(笑)
唐突だったってコトしか記憶にない。
ま、それで納得しかねる顔で関さんが下前へ。
隆聖さんが、自転車を押しながら上前へ。
自転車の前カゴには猫。
それの頭を撫でながら「にゃん太郎」と。
はっと振り返る、関さん。
含みのある顔の隆聖さん。
しかも。
思いっ切り、含みのある明かり。
ビームくっきりなクロス。
しかもカット・チェンジ(だった筈……物凄いインパクトだったんですもの〜)。
紙芝居屋=にゃん作老人or紙芝居屋≠にゃん作老人
元・サラリーマン=にゃん太郎or元・サラリーマン≠にゃん太郎
を話すときに殆ど必ず出てくる。
「だって、あのクロスっ!! 」
故に、明確にしないまでも『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』を暗示しているのと違うの〜?
と、なる。
また、紙芝居屋=にゃん作老人と考える理由として下の二つがある。
驪居眠りをしてしまった元・サラリーマンの見ていた夢を理解している節がある。
麗(上の補足説明のような気もするが……)敢えて、猫を「にゃん太郎」と呼ぶ。
これが、さらりと流していたのであれば遊び心とも取れるが、ココの隆聖さんの感じだと多分に含みを感じる。
で、『元・サラリーマン=にゃん太郎』だと考える理由。
驪サラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのか、サラリーマンの夢≠紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのかを考えた場合、流れ的にサラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」である方が自然。
尤も、話途中で眠り込んでしまい夢の中身が紙芝居に引きずられ、紙芝居「十一ぴきのネコ」の後半は元・サラリーマンの創り出した夢であり、『元・サラリーマン=にゃん太郎』ではない。というモノも考えられはするが。
ただし、その可能性は高くはないと思うのだが。
んで、『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』決定打としたのが、先程も書いたクロスと、バックの猫達。
にゃん太郎とにゃん作老人がいない。
この中に、関さんと隆聖さんが猫耳・猫尻尾を受け取っての合流であろうと、後から合流の形であろうと、絵のパーツの一つとなれば、彼らと紙芝居屋&元・サラリーマンは別の存在だと納得が出来て関係の整理も出来るのだが。
彼らはいない。
そうすると、どうしても『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』が捨てられず、かと云って決定打もなく、消化不良を起こして。
「結局、紙芝居が邪魔なンじゃん」
に辿り着く。
ただねぇ。
『紙芝居屋=にゃん作老人』だとすると、矢っ張り十一匹と一緒に旅に出ちゃうと辻褄が合わなくなってくるんですよねぇ。
つか、彼を仲間ポジションに置くことに無理があるような気がしてならない。
仲間と云うよりも、彼らの道標であって、遠くから見守っている存在である方がしっくりくる。
つか、じゃないと『紙芝居屋=にゃん作老人』が自分の中で納得できる形で成立しないんですよねぇ。
なら、『紙芝居屋≠にゃん作老人』と考えれば良いんじゃないかって考えも一応は過ぎるんですが……。
それにしては、ラストの紙芝居屋に含みを持たせてるでしょう?
で、悩んでるうちに「大体、紙芝居屋は何の為にいるの? あれは何なのっ!? 」に……。
あっ。
も一つ大きな消化不良を起こす材料があった。
衣装。
にゃん九。
他の猫たちは比較的時代を特定させない作りにしているが、にゃん九が妙に現代的で。
もし、彼が紙芝居「十一ぴきのネコ」が過去の話ではなく、現在進行形での話であった。という象徴なのであれば、うぅ〜んと納得せざるを得ないが、その可能性はあまり高くないんじゃ……。
と、するとね。
矢っ張りあの衣装は消化不良を起こすんですね。
ふぅ。
紙芝居と、にゃん作老人が旅に参加するコトに対する不満理由がまだあった……。
これも割と理由を占めています。
猫たちが次々と死んでいく場面。
クライマックスであっていい筈なのに、尻つぼみ。
毒に侵された猫たちが苦しんでいます。
その時、確かにゃん太郎が「独りでは死なせない」的なコトを云ったと記憶しています。
んで、にゃん十一が独りで死んでいくのはイヤだから歌を歌ってくれ。とせがみ、にゃん太郎はどんな歌がいいか? と問います。
にゃん十一が聞きたいのは、
もう 終わるんだこれ。
ひとりぼっちの
かなしい夜は
もう ともだちとあえたから
DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜より抜粋
にゃん太郎ソロからフル・コーラスになります。
その顔は毒からくる苦悶ではなく、独りぼっちでないコトの喜び。
であれば、最期の瞬間は最期の瞬間への驚きへはあっても、苦悶である必要はないと思うんですね。
なんですが、うぅ〜ん。
これは技量なのか、紙芝居の『毒』への布石なのか、苦悶の割合を増やしてしまったように見える。
少なくとも、私には『倖せ』には見えなかった。
んで、関さんのにゃん太郎も十匹のネコを看取りながら、最期の瞬間を迎えます。
ココがまた不満。
仲間を看取り、独り(でも、にゃん作老人が残ってるんですよね……)残されてなお、独りじゃないと歌う。
普通に考えたら、ここをドンッとあげると思うじゃないですかっ!!
それが、割と普通に崩れ伏してしまって……。
宝塚のベルばらのしつこいアンドレの最期の如く、もう一回起きあがり歌うかと期待したんですが……。
ありゃ? 隆聖さんに移っちゃったよ……。
おいおい〜このままぁ?
にゃん作老人も大きな盛り上げなく、死んじゃうし……。
欲求不満。
で、これも紙芝居の所為になる。
ラストであの長さを持ってくるとなると、ココで最後の盛り上がりを持ってくるとキツイかな? とは思います。
だったら、紙芝居いらないじゃんかっ!!
んで、猫たちの最期は歌にそぐわした最期に統一していけばイイんじゃないのぉ!?
あそこって、死んでいく場面ではあるモノの悲劇性はないんじゃないのぉ!?
もう独りで生きていく寂しさを味わうことがなく、ほんわかとしていいんじゃないのぉ!?
紙芝居の件で猫の最期の悲劇性を出してくるから、猫の最期が中途半端になるんじゃ……。
DC版「十一ぴきのネコ」に(紙芝居を無視すれば)悲劇性はないモノと考えています。
ある意味ハッピー・エンド。
【ひろろ】曰く「『白鳥の湖』のジークリードとオデット昇天版ってコトでしょ? 」
それなのに、紙芝居で猫の最期を悲劇であったとするから、「えぇっ!? なにそれっ!! アタシのほんわかした気持ち返してよっ說」となる。
加えて、紙芝居の最後がどうなったと聞く元・サラリーマンに真っ白な画用紙を渡して、君が描きなさい的なことを紙芝居屋が云うから。
猫たちの倖せそうな絵をバックにしてしまう。
と、云うことは。
独りじゃないんだと歌い死んでいった彼らは不幸だってコトか!?
えぇ〜?
だったら、もっと悲劇性を前面に出してのコーラスにしろよ〜說
と、說・令が頭の中を走り回る。
で、回り回って。
結局。
紙芝居要らないんじゃ……。
本っ当に、コレの存在が大きすぎて消化出来なかった。
過去形じゃないや。
まだ消化出来てない……。
幕開きもすっきししなければ、幕切れも……。
あれじゃ、幕切れンよ〜。
せめて紙芝居をもう少しすっきりと流してくれれば。と思います。
そうだ。
にゃん作老人。
オリジナルでは、矢っ張り旅には加わっていなかったんですね。
湖の場所を記した地図を渡してのお留守番。
それであると、しっくりくる。
うぅ〜ん。
隆聖さんを十一に持ってきての二本柱にした方がしまると思うのですが、他キャストとの兼ね合いなのか……。
だから、にゃん作老人に持ってはきたモノの。
オリジナル通りのポジションだと、二本柱が立てられずの苦肉の策だったのかしらん……。
うぅ〜ん。
えぇい。
ついでに、気になった箇所全部書いちゃえ。
で、感想其の四で良かったコト書けばイイや。
にゃん十一。
えぇと誰だ? 伝坂さんか。カリフォルニア〜の時も感じたのですが、今回は役の大きさもあって、ちょっと……。
本人がやりたいことは分かるんですが、キャラに頼りすぎてしまっているかな? と。
にゃん十一、おいしい場所を持って行くんですね。
特にラストのにゃん太郎に歌をせがむシーン。
キャラ頼りが比較的出来ないコト。シリアスであった。キーになる場面であった。
と云うこともあって、技量不足さが目立ってしまったか?
勿論、彼が際立って不足なのではないのですね。
ただ、にゃん十一には少し早かったかな? と。
出来ることなら、隆聖さんで観たかった。
【ひろろ】が納谷悟朗さんから『にゃん十一』が大事なんだと刷り込み(刷り込みの状況はココ参照)された為、それをそのまま【ひろぽ】に刷り込んだ為に、かなりな期待を持っていたのは事実です。
その為、一層厳しく観てしまった可能性も否定できません。
ダブルを組んでいる堀本さんに関しては、観ていないのでノー・コメント(笑)
で。
不満ばかりを述べていないで、いい加減、良かった感想を書きましょうっ!!
これから書きます〜勒
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