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【ひろぽ】's BLOG

Date: 2005/11/25(金)   Category: 関俊彦舞台感想
「十一ぴきのネコ」感想 其の弐
昨夜【ひろろ】と話してて一応の総感想がまとまりました。

井上作品をやるなら、弄らずマンマで。

で。
【ひろぽ】も【ひろろ】関さんの舞台を観たコトもあり、声仕事の作品からある程度、関さんの技量に対しての安心感からの期待感を持っていたコト。
また、【ひろろ】は演出の柴本さんと仕事をしたコトもあり、演出家としての技量に対しても安心感を持っていました。
無論、井上作品であると云うことも期待感において決して少なくない量を占めていました。
以上を含め、完成度への期待をかなり高い位置においての観劇となったのです。
んで。
何でこんなコトをわざわざ書いてるか。
不完全燃焼な不満はあるんだけど、悪かったって云いたい訳じゃないんだよ〜。
ッてことを明確にしておこうかなぁと……。

で。
いい加減に本題。

昨日の感想其の壱で紙芝居の不必要さを書いていますが、考えれば考えるほど、「結局、紙芝居の所為じゃん」に行き着いてしまうんです。
先ず、関さんの初登場シーン。
紙芝居に興味を持てない子供達が去っていったしまった(恐らく平日の昼の)公園に、サラリーマンらしき人物が座り込んでいる。
それを不思議に思った紙芝居屋が「リストラされたのか? 」と声を掛ければ、肯定される。
なら、紙芝居でも見ないか? と呼び寄せ、客席後方より関さんの登場。
このリストラ客席後方からの登場の二つの要素で、元・サラリーマンが強く印象づけられてしまう。
ただの紙芝居の観客という立場にしては、強い存在感を与えられてしまいました。
また、その結果、紙芝居屋も同様に何らかの意味を持った人物かであるかのように思われる。
実際、私は紙芝居屋がにゃん作老人として、語り部として第三者として、直接は絡まずに話が進むのだと思い込みました。
が、実際は……。
えと、コレについては後でまた書きますね。
取り敢えずは、元・サラリーマンとしての登場から、猫としての登場の関さんについて続けます。
暗転後、オーヴァチュア(曲名は会場で販売されたCDより)が入り、曲あけで猫としての関さん初登場となるのですが。
オーヴァチュアが長い。
紙芝居の件を『物語としての「十一ぴきのネコ」』への導入部とするのであれば、暗転・にゃん太郎登場でよいのでは?
また、紙芝居を『舞台本編としての「十一ぴきのネコ」』への導入部とするのであれば、紙芝居に意味づけを強く持たさず、さらりと流した方が、しまるのではないか?
また、にゃん太郎の登場についてなのであるが。
この登場も物語本編への導入かのようにみえてしまうのである。
帽子を追う絵は、仲間がなく独りで生きる姿なのだと思うのだが、一枚紗を掛けたような不透明感を覚えてしまう。
そのまま、にゃん太郎の場は進行し、次の場。
十匹の猫の集まる場に帽子が、飛んでいき彼らとにゃん太郎が合流したところから、透明になる。
えと。
一度、整理しておきますね。
早い話が。
導入部が三度ある。
驪紙芝居。
麗オーヴァチュア。
黎にゃん太郎の登場の場。
この為に、しつこさ及び、テンションの低下を感じてしまう。

例えば、紙芝居を入れるのであれば。
二通り。
紙芝居から、そのままにゃん太郎登場とし、にゃん太郎も不透明感(不透明感と云うと、綺麗でないモノのような印象だな……。えっと、「輪郭をはっきりと出さないパステル画のような」と云う意味合いだと考えて下さい)を出さずに、物語の中の登場人物『にゃん太郎』を出してしまう。
或いは。
紙芝居屋に呼ばれる元・サラリーマンをあくまで、観客の一人として扱う。
観客席に座る私達の代表としての扱いとする。
つまりは。
導入部ではなくて、前説扱い。
で、あれば。
また感想は変わってきたかも知れない。

紙芝居を切るのであれば。
これまた、二通り。
オーヴァチュア後半に被せて、野良猫代表としての猫。曲終わりで野良猫代表の猫から、『にゃん太郎』への変化。
或いは、オーヴァチュア終わりで『にゃん太郎』としての登場。
で、この紙芝居を切った場合について、もちっと細かく。
ココについての意見が【ひろぽ】と【ひろろ】が分かれました。(意見というか、公演を観ての感想が分かれた為、アプローチの方法も変わってきた)

先ずは、【ひろぽ】。
あれは、にゃん太郎ではなく、独りぼっちの野良猫を表したモノ。
であるから、にゃん太郎の個を出すのではなく、輪郭がはっきりしなくても良いのではないか?
と、云うよりも。
輪郭をはっきりとさせていなかった為に、『にゃん太郎』ではなく、独りぼっちの野良猫を表しているのではないかと受け止められた。
【ひろろ】は。
もっと空元気を前面に出しても良かったのでは?
中途半端に寂しさを出してしまい、欲求不満が残る。
独りぼっちのにゃん太郎へのアプローチの仕方の方法の差なのだが、今回は少々不満が残る。

えと、ここの大きな差は、野良猫代表と取るか、『にゃん太郎』と取るか。です。
【ひろぽ】は野良猫代表ととり、【ひろろ】は『にゃん太郎』と受け止めたために、生じた感想の差でした。
で、ココに問題が一つ。
野良猫代表であるのか、にゃん太郎であるのか。
それを明確にするのを避けたのか、なっちゃったのか、が不明。
で、また気持ち悪さが残る。

もし、アレが関さんが演る、にゃん太郎であるのあれば。
もっと空元気からの寂しさ等の奥行きを見せてくれたのでは? と、どうしても思ってしまう。
その感覚が掴めない役者だとは思えない。
以上の理由から、私は野良猫代表だと捉え、【ひろろ】は欲求不満を覚えた。
ここのところは、柴本さんに訊いてみたいですねぇ。

で。
次いで、紙芝居と隆聖さんの位置関係から見る、紙芝居は要らないと思う理由です。
既に幾度も書いていますが、紙芝居屋と元・サラリーマンの印象付けを強くしてしまったが為に、紙芝居屋=にゃん作老人の感が強くなってしまう。
特に、ラストの紙芝居屋と元・サラリーマンとのやり取りからその印象が強く残されてしまう。
幕開けの紙芝居の位置関係から、『紙芝居』の存在が強くインプットされてしまう。
えぇと。
ここで、一応簡単にセットの説明。
大黒の構成舞台。
客入れは、緞帳はなくセンター前に紙芝居の乗った自転車。
つか。
客入れで『紙芝居』を見せていた。
なんですよ。
これだけ『紙芝居』を前面に出しているんです。
「十一匹のネコ」ってのは、紙芝居であって、それを一緒に観ましょうよ。
と、云っているのに。
何故かそこをサラッと流さずに、元・サラリーマンの存在を主張してくるから混乱が生ずる。
んで。
(コレは終演後の感想ではあるが)ラストの紙芝居屋と元・サラリーマンとのやり取りから、紙芝居屋=にゃん作老人であると思えてならない。
但し。
そうであるならば、にゃん作老人は魚を喰って死んでしまうと辻褄が合わない。
大体、にゃん作老人が十一匹のネコの旅に絡んでくるコトに対しての意味が掴めずにいる。
歌にもあるが、彼らは総勢十二匹の仲間である。
ネコが十一匹。そして夢。
もしも、にゃん作老人を『夢』であると位置付けるのであれば、魚を喰って死んでしまうのは、ますますおかしい。
にゃん作老人が『夢』ではなく、ただの仲間だとすると。
十一匹のネコではなく、十二匹のネコになってしまうのであって、計算が合わない。
それとも、彼は仲間外れなのか?
それは何故?
年寄りだから?
それはどう考えても変だろ?
と、すると。
結局。
にゃん作老人の存在理由が……。

と、不満其の参に続く。
ので。
また明日。

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【ひろぽ】 | URL | 2005/11/26(土) 16:56 | EDIT |
えっと、一応補足しておこうかと。
十二匹の仲間がある
十一匹は野良猫で
もう一匹は大きな夢なのさ
と、歌うのがにゃん作老人が出てくる前だったかも知れないんですが、
「出てくる前だったから」
とか云う突っ込みが入る前に、補足説明。
にゃん作老人は本来、旅に同行する仲間でないことが判明。
突っ込んじゃいけない点だったらしい(笑)

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