「十一ぴきのネコ」感想 其の参
昨日に引き続き「十一ぴきのネコ」感想です。
と、その前に。
井上作品の特徴の一つを。
話がどんどん流れていく
井上さん、調べたモノは全部入れなきゃ気が済まないんじゃないか? って勢いで書き込む方。
どんどん、詰め込んでいきます。
その分、どんどん流れていきます。
なのに。
ブツ切れ感がなく、すんなりとストーリーを追っていけるのが井上さんの力なのだとしみじみと感じました。
で。
わざわざ井上作品の特徴をあげた理由。
『話がどんどん流れていく』
これが今回の不満の根底に流れる、紙芝居の不自然さに繋がっていく為でして。
「十一ぴきのネコ」の一貫したテーマは『独りぼっちはイヤだ』。
であると、思われます。
主題になるのが、『仲間』であるのに、ラストの紙芝居によって唐突に『毒』にすり替えられてらしまった。
ソコまでの強い意志を働かせているか否かは(当然の事ながら)不明ではあるが、元・サラリーマンに『毒』というインパクトの強い言葉を喋らせてしまった為に、『毒』を流す人間の生活を考え直そう的なテーマにすり替えられてしまったような印象が強く残ってしまう。
で、それがまた唐突すぎるから気持ち悪さが強くなってしまう。
確かに、猫たちは『毒』に汚染された魚を喰らい、その『毒』によって死に至る。
だが、その死に際は『毒』への恨み節を吐きながらではない。
元々のテーマであると思われる『もう独りではない。仲間がいるんだ』と歌う。
この段階で、『毒』の存在は過去の話となり、元の『もう独りではない。仲間がいるんだ』に主題は戻ってきている。
また、作品中で人間に対する恨み節を強く印象づける場面があれば、多少は変わってくる可能性もあるかもしれない。
だが、作品中、人間社会に対する恨み節を強く吐く場面は思い当たらない。
飼い猫が保健所に連れていかれてしまったりの人間に酷い目に遭わされたとする過去持ちはいるが、それを『毒』を作り流す人間社会への恨みととるにはかなりの無理があるのではないか?
その状態で。
唐突に、『毒』である。
「呆気にとられた」と云うのが、素直な感想。
私はこの紙芝居の場面での『毒』に辟易したのだが、【ひろろ】はその前の魚を喰らい苦しむ猫たちの発する『毒』に妙なしつこさを覚えたようで。
で、何故『毒』を前面に出さなければならなかったを考えると『紙芝居』に辿り着く。
そこに持っていく為に、『毒』を前面に押し出さなければならなかったのでは?
で、結局。
「紙芝居要らない」になる。
と、いうことで。
やっとこさ本題。
下を書き出してから急遽、井上作品についての説明が必要では? との【ひろろ】の言葉により付け足したらなんだか長くなっちゃった(笑)
紙芝居と隆聖さんの位置関係から見る、紙芝居は要らないと思う理由 其の弐。
感想 其の弐では最初の紙芝居を芯にして書いていったので、今回はラストの紙芝居。
えと、ココで終演直後の【ひろぽ】と【ひろろ】の会話の再現。
【ひろぽ】「お疲れ様でした」
【ひろろ】「お疲れ様〜」
【ひろぽ】「紙芝居要らない」
【ひろろ】「要らない」
ここから、自宅に戻る迄の間ずっと紙芝居談議でした。
何故、ここまで『紙芝居』にこだわるのか?
既に幾度も書いてますねぇ(笑)
補足補足になってしまうんですが、昨日は最初の紙芝居でしたので、今回はラストの紙芝居。
位置付けが紙芝居の観客(観客席の代表との置き換え可)なのか、紙芝居「十一ぴきのネコ」に絡む存在なのかがはっきりしない元・サラリーマンが居眠りをしてしまい、紙芝居屋に起こされる所から場面は始まる。
居眠りをしてしまい「紙芝居のラストが分からない」と云う。
紙芝居屋は「寝むっちまったんだから、そんなの知るかい」との答え。
彼らの最期は? と問う元・サラリーマンに紙芝居屋が画用紙を渡す。
「そこに思う絵を描け」と。
と、ここで大問題が。
あれだけ毒・毒と騒いでいるのに、どのタイミングでこの台詞が入ったのかが思い出せない。
関さんが、センターで隆聖さんに食ってかかってる姿は覚えているのだが、それが画用紙を渡されるまえであったか、後であったかが曖昧。
食ってかかって、自由に描けで、毒云々と問い掛けたような気がするのだが、どうだたったろ?
また、正確な台詞は覚えてないんですね。
ただ、前にも書いたように呆気にとられて記憶が飛んでる(笑)
唐突だったってコトしか記憶にない。
ま、それで納得しかねる顔で関さんが下前へ。
隆聖さんが、自転車を押しながら上前へ。
自転車の前カゴには猫。
それの頭を撫でながら「にゃん太郎」と。
はっと振り返る、関さん。
含みのある顔の隆聖さん。
しかも。
思いっ切り、含みのある明かり。
ビームくっきりなクロス。
しかもカット・チェンジ(だった筈……物凄いインパクトだったんですもの〜)。
紙芝居屋=にゃん作老人or紙芝居屋≠にゃん作老人
元・サラリーマン=にゃん太郎or元・サラリーマン≠にゃん太郎
を話すときに殆ど必ず出てくる。
「だって、あのクロスっ!! 」
故に、明確にしないまでも『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』を暗示しているのと違うの〜?
と、なる。
また、紙芝居屋=にゃん作老人と考える理由として下の二つがある。
驪居眠りをしてしまった元・サラリーマンの見ていた夢を理解している節がある。
麗(上の補足説明のような気もするが……)敢えて、猫を「にゃん太郎」と呼ぶ。
これが、さらりと流していたのであれば遊び心とも取れるが、ココの隆聖さんの感じだと多分に含みを感じる。
で、『元・サラリーマン=にゃん太郎』だと考える理由。
驪サラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのか、サラリーマンの夢≠紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのかを考えた場合、流れ的にサラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」である方が自然。
尤も、話途中で眠り込んでしまい夢の中身が紙芝居に引きずられ、紙芝居「十一ぴきのネコ」の後半は元・サラリーマンの創り出した夢であり、『元・サラリーマン=にゃん太郎』ではない。というモノも考えられはするが。
ただし、その可能性は高くはないと思うのだが。
んで、『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』決定打としたのが、先程も書いたクロスと、バックの猫達。
にゃん太郎とにゃん作老人がいない。
この中に、関さんと隆聖さんが猫耳・猫尻尾を受け取っての合流であろうと、後から合流の形であろうと、絵のパーツの一つとなれば、彼らと紙芝居屋&元・サラリーマンは別の存在だと納得が出来て関係の整理も出来るのだが。
彼らはいない。
そうすると、どうしても『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』が捨てられず、かと云って決定打もなく、消化不良を起こして。
「結局、紙芝居が邪魔なンじゃん」
に辿り着く。
ただねぇ。
『紙芝居屋=にゃん作老人』だとすると、矢っ張り十一匹と一緒に旅に出ちゃうと辻褄が合わなくなってくるんですよねぇ。
つか、彼を仲間ポジションに置くことに無理があるような気がしてならない。
仲間と云うよりも、彼らの道標であって、遠くから見守っている存在である方がしっくりくる。
つか、じゃないと『紙芝居屋=にゃん作老人』が自分の中で納得できる形で成立しないんですよねぇ。
なら、『紙芝居屋≠にゃん作老人』と考えれば良いんじゃないかって考えも一応は過ぎるんですが……。
それにしては、ラストの紙芝居屋に含みを持たせてるでしょう?
で、悩んでるうちに「大体、紙芝居屋は何の為にいるの? あれは何なのっ!? 」に……。
あっ。
も一つ大きな消化不良を起こす材料があった。
衣装。
にゃん九。
他の猫たちは比較的時代を特定させない作りにしているが、にゃん九が妙に現代的で。
もし、彼が紙芝居「十一ぴきのネコ」が過去の話ではなく、現在進行形での話であった。という象徴なのであれば、うぅ〜んと納得せざるを得ないが、その可能性はあまり高くないんじゃ……。
と、するとね。
矢っ張りあの衣装は消化不良を起こすんですね。
ふぅ。
紙芝居と、にゃん作老人が旅に参加するコトに対する不満理由がまだあった……。
これも割と理由を占めています。
猫たちが次々と死んでいく場面。
クライマックスであっていい筈なのに、尻つぼみ。
毒に侵された猫たちが苦しんでいます。
その時、確かにゃん太郎が「独りでは死なせない」的なコトを云ったと記憶しています。
んで、にゃん十一が独りで死んでいくのはイヤだから歌を歌ってくれ。とせがみ、にゃん太郎はどんな歌がいいか? と問います。
にゃん十一が聞きたいのは、
にゃん太郎ソロからフル・コーラスになります。
その顔は毒からくる苦悶ではなく、独りぼっちでないコトの喜び。
であれば、最期の瞬間は最期の瞬間への驚きへはあっても、苦悶である必要はないと思うんですね。
なんですが、うぅ〜ん。
これは技量なのか、紙芝居の『毒』への布石なのか、苦悶の割合を増やしてしまったように見える。
少なくとも、私には『倖せ』には見えなかった。
んで、関さんのにゃん太郎も十匹のネコを看取りながら、最期の瞬間を迎えます。
ココがまた不満。
仲間を看取り、独り(でも、にゃん作老人が残ってるんですよね……)残されてなお、独りじゃないと歌う。
普通に考えたら、ここをドンッとあげると思うじゃないですかっ!!
それが、割と普通に崩れ伏してしまって……。
宝塚のベルばらのしつこいアンドレの最期の如く、もう一回起きあがり歌うかと期待したんですが……。
ありゃ? 隆聖さんに移っちゃったよ……。
おいおい〜このままぁ?
にゃん作老人も大きな盛り上げなく、死んじゃうし……。
欲求不満。
で、これも紙芝居の所為になる。
ラストであの長さを持ってくるとなると、ココで最後の盛り上がりを持ってくるとキツイかな? とは思います。
だったら、紙芝居いらないじゃんかっ!!
んで、猫たちの最期は歌にそぐわした最期に統一していけばイイんじゃないのぉ!?
あそこって、死んでいく場面ではあるモノの悲劇性はないんじゃないのぉ!?
もう独りで生きていく寂しさを味わうことがなく、ほんわかとしていいんじゃないのぉ!?
紙芝居の件で猫の最期の悲劇性を出してくるから、猫の最期が中途半端になるんじゃ……。
DC版「十一ぴきのネコ」に(紙芝居を無視すれば)悲劇性はないモノと考えています。
ある意味ハッピー・エンド。
【ひろろ】曰く「『白鳥の湖』のジークリードとオデット昇天版ってコトでしょ? 」
それなのに、紙芝居で猫の最期を悲劇であったとするから、「えぇっ!? なにそれっ!! アタシのほんわかした気持ち返してよっ說」となる。
加えて、紙芝居の最後がどうなったと聞く元・サラリーマンに真っ白な画用紙を渡して、君が描きなさい的なことを紙芝居屋が云うから。
猫たちの倖せそうな絵をバックにしてしまう。
と、云うことは。
独りじゃないんだと歌い死んでいった彼らは不幸だってコトか!?
えぇ〜?
だったら、もっと悲劇性を前面に出してのコーラスにしろよ〜說
と、說・令が頭の中を走り回る。
で、回り回って。
結局。
紙芝居要らないんじゃ……。
本っ当に、コレの存在が大きすぎて消化出来なかった。
過去形じゃないや。
まだ消化出来てない……。
幕開きもすっきししなければ、幕切れも……。
あれじゃ、幕切れンよ〜。
せめて紙芝居をもう少しすっきりと流してくれれば。と思います。
そうだ。
にゃん作老人。
オリジナルでは、矢っ張り旅には加わっていなかったんですね。
湖の場所を記した地図を渡してのお留守番。
それであると、しっくりくる。
うぅ〜ん。
隆聖さんを十一に持ってきての二本柱にした方がしまると思うのですが、他キャストとの兼ね合いなのか……。
だから、にゃん作老人に持ってはきたモノの。
オリジナル通りのポジションだと、二本柱が立てられずの苦肉の策だったのかしらん……。
うぅ〜ん。
えぇい。
ついでに、気になった箇所全部書いちゃえ。
で、感想其の四で良かったコト書けばイイや。
にゃん十一。
えぇと誰だ? 伝坂さんか。カリフォルニア〜の時も感じたのですが、今回は役の大きさもあって、ちょっと……。
本人がやりたいことは分かるんですが、キャラに頼りすぎてしまっているかな? と。
にゃん十一、おいしい場所を持って行くんですね。
特にラストのにゃん太郎に歌をせがむシーン。
キャラ頼りが比較的出来ないコト。シリアスであった。キーになる場面であった。
と云うこともあって、技量不足さが目立ってしまったか?
勿論、彼が際立って不足なのではないのですね。
ただ、にゃん十一には少し早かったかな? と。
出来ることなら、隆聖さんで観たかった。
【ひろろ】が納谷悟朗さんから『にゃん十一』が大事なんだと刷り込み(刷り込みの状況はココ参照)された為、それをそのまま【ひろぽ】に刷り込んだ為に、かなりな期待を持っていたのは事実です。
その為、一層厳しく観てしまった可能性も否定できません。
ダブルを組んでいる堀本さんに関しては、観ていないのでノー・コメント(笑)
で。
不満ばかりを述べていないで、いい加減、良かった感想を書きましょうっ!!
これから書きます〜勒
と、その前に。
井上作品の特徴の一つを。
話がどんどん流れていく
井上さん、調べたモノは全部入れなきゃ気が済まないんじゃないか? って勢いで書き込む方。
どんどん、詰め込んでいきます。
その分、どんどん流れていきます。
なのに。
ブツ切れ感がなく、すんなりとストーリーを追っていけるのが井上さんの力なのだとしみじみと感じました。
で。
わざわざ井上作品の特徴をあげた理由。
『話がどんどん流れていく』
これが今回の不満の根底に流れる、紙芝居の不自然さに繋がっていく為でして。
「十一ぴきのネコ」の一貫したテーマは『独りぼっちはイヤだ』。
であると、思われます。
主題になるのが、『仲間』であるのに、ラストの紙芝居によって唐突に『毒』にすり替えられてらしまった。
ソコまでの強い意志を働かせているか否かは(当然の事ながら)不明ではあるが、元・サラリーマンに『毒』というインパクトの強い言葉を喋らせてしまった為に、『毒』を流す人間の生活を考え直そう的なテーマにすり替えられてしまったような印象が強く残ってしまう。
で、それがまた唐突すぎるから気持ち悪さが強くなってしまう。
確かに、猫たちは『毒』に汚染された魚を喰らい、その『毒』によって死に至る。
だが、その死に際は『毒』への恨み節を吐きながらではない。
元々のテーマであると思われる『もう独りではない。仲間がいるんだ』と歌う。
もう 終わるんだ
ひとりぼっちの
かなしい夜は
もう ともだちとあえたから
DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜より抜粋
この段階で、『毒』の存在は過去の話となり、元の『もう独りではない。仲間がいるんだ』に主題は戻ってきている。
また、作品中で人間に対する恨み節を強く印象づける場面があれば、多少は変わってくる可能性もあるかもしれない。
だが、作品中、人間社会に対する恨み節を強く吐く場面は思い当たらない。
飼い猫が保健所に連れていかれてしまったりの人間に酷い目に遭わされたとする過去持ちはいるが、それを『毒』を作り流す人間社会への恨みととるにはかなりの無理があるのではないか?
その状態で。
唐突に、『毒』である。
「呆気にとられた」と云うのが、素直な感想。
私はこの紙芝居の場面での『毒』に辟易したのだが、【ひろろ】はその前の魚を喰らい苦しむ猫たちの発する『毒』に妙なしつこさを覚えたようで。
で、何故『毒』を前面に出さなければならなかったを考えると『紙芝居』に辿り着く。
そこに持っていく為に、『毒』を前面に押し出さなければならなかったのでは?
で、結局。
「紙芝居要らない」になる。
と、いうことで。
やっとこさ本題。
下を書き出してから急遽、井上作品についての説明が必要では? との【ひろろ】の言葉により付け足したらなんだか長くなっちゃった(笑)
紙芝居と隆聖さんの位置関係から見る、紙芝居は要らないと思う理由 其の弐。
感想 其の弐では最初の紙芝居を芯にして書いていったので、今回はラストの紙芝居。
えと、ココで終演直後の【ひろぽ】と【ひろろ】の会話の再現。
【ひろぽ】「お疲れ様でした」
【ひろろ】「お疲れ様〜」
【ひろぽ】「紙芝居要らない」
【ひろろ】「要らない」
ここから、自宅に戻る迄の間ずっと紙芝居談議でした。
何故、ここまで『紙芝居』にこだわるのか?
既に幾度も書いてますねぇ(笑)
補足補足になってしまうんですが、昨日は最初の紙芝居でしたので、今回はラストの紙芝居。
位置付けが紙芝居の観客(観客席の代表との置き換え可)なのか、紙芝居「十一ぴきのネコ」に絡む存在なのかがはっきりしない元・サラリーマンが居眠りをしてしまい、紙芝居屋に起こされる所から場面は始まる。
居眠りをしてしまい「紙芝居のラストが分からない」と云う。
紙芝居屋は「寝むっちまったんだから、そんなの知るかい」との答え。
彼らの最期は? と問う元・サラリーマンに紙芝居屋が画用紙を渡す。
「そこに思う絵を描け」と。
と、ここで大問題が。
あれだけ毒・毒と騒いでいるのに、どのタイミングでこの台詞が入ったのかが思い出せない。
関さんが、センターで隆聖さんに食ってかかってる姿は覚えているのだが、それが画用紙を渡されるまえであったか、後であったかが曖昧。
食ってかかって、自由に描けで、毒云々と問い掛けたような気がするのだが、どうだたったろ?
また、正確な台詞は覚えてないんですね。
ただ、前にも書いたように呆気にとられて記憶が飛んでる(笑)
唐突だったってコトしか記憶にない。
ま、それで納得しかねる顔で関さんが下前へ。
隆聖さんが、自転車を押しながら上前へ。
自転車の前カゴには猫。
それの頭を撫でながら「にゃん太郎」と。
はっと振り返る、関さん。
含みのある顔の隆聖さん。
しかも。
思いっ切り、含みのある明かり。
ビームくっきりなクロス。
しかもカット・チェンジ(だった筈……物凄いインパクトだったんですもの〜)。
紙芝居屋=にゃん作老人or紙芝居屋≠にゃん作老人
元・サラリーマン=にゃん太郎or元・サラリーマン≠にゃん太郎
を話すときに殆ど必ず出てくる。
「だって、あのクロスっ!! 」
故に、明確にしないまでも『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』を暗示しているのと違うの〜?
と、なる。
また、紙芝居屋=にゃん作老人と考える理由として下の二つがある。
驪居眠りをしてしまった元・サラリーマンの見ていた夢を理解している節がある。
麗(上の補足説明のような気もするが……)敢えて、猫を「にゃん太郎」と呼ぶ。
これが、さらりと流していたのであれば遊び心とも取れるが、ココの隆聖さんの感じだと多分に含みを感じる。
で、『元・サラリーマン=にゃん太郎』だと考える理由。
驪サラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのか、サラリーマンの夢≠紙芝居「十一ぴきのネコ」であるのかを考えた場合、流れ的にサラリーマンの夢=紙芝居「十一ぴきのネコ」である方が自然。
尤も、話途中で眠り込んでしまい夢の中身が紙芝居に引きずられ、紙芝居「十一ぴきのネコ」の後半は元・サラリーマンの創り出した夢であり、『元・サラリーマン=にゃん太郎』ではない。というモノも考えられはするが。
ただし、その可能性は高くはないと思うのだが。
んで、『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』決定打としたのが、先程も書いたクロスと、バックの猫達。
にゃん太郎とにゃん作老人がいない。
この中に、関さんと隆聖さんが猫耳・猫尻尾を受け取っての合流であろうと、後から合流の形であろうと、絵のパーツの一つとなれば、彼らと紙芝居屋&元・サラリーマンは別の存在だと納得が出来て関係の整理も出来るのだが。
彼らはいない。
そうすると、どうしても『紙芝居屋=にゃん作老人』『元・サラリーマン=にゃん太郎』が捨てられず、かと云って決定打もなく、消化不良を起こして。
「結局、紙芝居が邪魔なンじゃん」
に辿り着く。
ただねぇ。
『紙芝居屋=にゃん作老人』だとすると、矢っ張り十一匹と一緒に旅に出ちゃうと辻褄が合わなくなってくるんですよねぇ。
つか、彼を仲間ポジションに置くことに無理があるような気がしてならない。
仲間と云うよりも、彼らの道標であって、遠くから見守っている存在である方がしっくりくる。
つか、じゃないと『紙芝居屋=にゃん作老人』が自分の中で納得できる形で成立しないんですよねぇ。
なら、『紙芝居屋≠にゃん作老人』と考えれば良いんじゃないかって考えも一応は過ぎるんですが……。
それにしては、ラストの紙芝居屋に含みを持たせてるでしょう?
で、悩んでるうちに「大体、紙芝居屋は何の為にいるの? あれは何なのっ!? 」に……。
あっ。
も一つ大きな消化不良を起こす材料があった。
衣装。
にゃん九。
他の猫たちは比較的時代を特定させない作りにしているが、にゃん九が妙に現代的で。
もし、彼が紙芝居「十一ぴきのネコ」が過去の話ではなく、現在進行形での話であった。という象徴なのであれば、うぅ〜んと納得せざるを得ないが、その可能性はあまり高くないんじゃ……。
と、するとね。
矢っ張りあの衣装は消化不良を起こすんですね。
ふぅ。
紙芝居と、にゃん作老人が旅に参加するコトに対する不満理由がまだあった……。
これも割と理由を占めています。
猫たちが次々と死んでいく場面。
クライマックスであっていい筈なのに、尻つぼみ。
毒に侵された猫たちが苦しんでいます。
その時、確かにゃん太郎が「独りでは死なせない」的なコトを云ったと記憶しています。
んで、にゃん十一が独りで死んでいくのはイヤだから歌を歌ってくれ。とせがみ、にゃん太郎はどんな歌がいいか? と問います。
にゃん十一が聞きたいのは、
もう 終わるんだこれ。
ひとりぼっちの
かなしい夜は
もう ともだちとあえたから
DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜より抜粋
にゃん太郎ソロからフル・コーラスになります。
その顔は毒からくる苦悶ではなく、独りぼっちでないコトの喜び。
であれば、最期の瞬間は最期の瞬間への驚きへはあっても、苦悶である必要はないと思うんですね。
なんですが、うぅ〜ん。
これは技量なのか、紙芝居の『毒』への布石なのか、苦悶の割合を増やしてしまったように見える。
少なくとも、私には『倖せ』には見えなかった。
んで、関さんのにゃん太郎も十匹のネコを看取りながら、最期の瞬間を迎えます。
ココがまた不満。
仲間を看取り、独り(でも、にゃん作老人が残ってるんですよね……)残されてなお、独りじゃないと歌う。
普通に考えたら、ここをドンッとあげると思うじゃないですかっ!!
それが、割と普通に崩れ伏してしまって……。
宝塚のベルばらのしつこいアンドレの最期の如く、もう一回起きあがり歌うかと期待したんですが……。
ありゃ? 隆聖さんに移っちゃったよ……。
おいおい〜このままぁ?
にゃん作老人も大きな盛り上げなく、死んじゃうし……。
欲求不満。
で、これも紙芝居の所為になる。
ラストであの長さを持ってくるとなると、ココで最後の盛り上がりを持ってくるとキツイかな? とは思います。
だったら、紙芝居いらないじゃんかっ!!
んで、猫たちの最期は歌にそぐわした最期に統一していけばイイんじゃないのぉ!?
あそこって、死んでいく場面ではあるモノの悲劇性はないんじゃないのぉ!?
もう独りで生きていく寂しさを味わうことがなく、ほんわかとしていいんじゃないのぉ!?
紙芝居の件で猫の最期の悲劇性を出してくるから、猫の最期が中途半端になるんじゃ……。
DC版「十一ぴきのネコ」に(紙芝居を無視すれば)悲劇性はないモノと考えています。
ある意味ハッピー・エンド。
【ひろろ】曰く「『白鳥の湖』のジークリードとオデット昇天版ってコトでしょ? 」
それなのに、紙芝居で猫の最期を悲劇であったとするから、「えぇっ!? なにそれっ!! アタシのほんわかした気持ち返してよっ說」となる。
加えて、紙芝居の最後がどうなったと聞く元・サラリーマンに真っ白な画用紙を渡して、君が描きなさい的なことを紙芝居屋が云うから。
猫たちの倖せそうな絵をバックにしてしまう。
と、云うことは。
独りじゃないんだと歌い死んでいった彼らは不幸だってコトか!?
えぇ〜?
だったら、もっと悲劇性を前面に出してのコーラスにしろよ〜說
と、說・令が頭の中を走り回る。
で、回り回って。
結局。
紙芝居要らないんじゃ……。
本っ当に、コレの存在が大きすぎて消化出来なかった。
過去形じゃないや。
まだ消化出来てない……。
幕開きもすっきししなければ、幕切れも……。
あれじゃ、幕切れンよ〜。
せめて紙芝居をもう少しすっきりと流してくれれば。と思います。
そうだ。
にゃん作老人。
オリジナルでは、矢っ張り旅には加わっていなかったんですね。
湖の場所を記した地図を渡してのお留守番。
それであると、しっくりくる。
うぅ〜ん。
隆聖さんを十一に持ってきての二本柱にした方がしまると思うのですが、他キャストとの兼ね合いなのか……。
だから、にゃん作老人に持ってはきたモノの。
オリジナル通りのポジションだと、二本柱が立てられずの苦肉の策だったのかしらん……。
うぅ〜ん。
えぇい。
ついでに、気になった箇所全部書いちゃえ。
で、感想其の四で良かったコト書けばイイや。
にゃん十一。
えぇと誰だ? 伝坂さんか。カリフォルニア〜の時も感じたのですが、今回は役の大きさもあって、ちょっと……。
本人がやりたいことは分かるんですが、キャラに頼りすぎてしまっているかな? と。
にゃん十一、おいしい場所を持って行くんですね。
特にラストのにゃん太郎に歌をせがむシーン。
キャラ頼りが比較的出来ないコト。シリアスであった。キーになる場面であった。
と云うこともあって、技量不足さが目立ってしまったか?
勿論、彼が際立って不足なのではないのですね。
ただ、にゃん十一には少し早かったかな? と。
出来ることなら、隆聖さんで観たかった。
【ひろろ】が納谷悟朗さんから『にゃん十一』が大事なんだと刷り込み(刷り込みの状況はココ参照)された為、それをそのまま【ひろぽ】に刷り込んだ為に、かなりな期待を持っていたのは事実です。
その為、一層厳しく観てしまった可能性も否定できません。
ダブルを組んでいる堀本さんに関しては、観ていないのでノー・コメント(笑)
で。
不満ばかりを述べていないで、いい加減、良かった感想を書きましょうっ!!
これから書きます〜勒
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