「十一ぴきのネコ」感想 其の伍
続いてしまいました。
「十一ぴきのネコ」感想です。
DC版「十一ぴきのネコ」の脚本に対する感想かな?
にゃん作老人の存在に違和感を感じ続けていた私は、オリジナルでの扱いを探しにネットを巡ってみました。
すると、簡単に答えが見つかりました。
オリジナルでは、にゃん作老人は湖の地図を渡すだけで旅には参加しないようです。
それをDC版では参加させてしまったから、しっくりこない感を覚えてしまった。
それだけでなく、にゃん太郎についても悪い方へ作用してしまったのではないか?
にゃん太郎の姿が見えてこなかった理由の一つとして、関俊彦の芝居が大人しかった所為ではないか? というのをあげています。
私は他に、にゃん作老人の存在感が引っ掛かっていたのですね。
作品中、にゃん十一がにゃん太郎のコトを「いつの間にか、リーダーのようになって」とにゃん太郎の立場を説明する場面があります。
確かに、リーダー扱いと云えばそうなんですが、その割りにリーダーとしての姿が弱く感じてしまっていたんです。
それを強く感じたのは、次の三箇所。
にゃん十一が魚に喰われ、助ける方法を考えているとき。
毒に苦しんでいる仲間達に飲ます水を探しに行って手ぶらで帰ってきたとき。
仲間達を看取るとき。
この三箇所で共通しているのが、にゃん作老人の存在。
中尾隆聖の存在感ではなくて、にゃん作老人の位置付けの問題。
にゃん十一を助ける方法を考えたのは、にゃん作老人。
苦しむ仲間を励ましていたのは、にゃん作老人。
最後の一人まで看取ったのは、にゃん作老人。
この三箇所において、にゃん太郎はNo.2になってしまっている。
名前数字組とにゃん作老人の間にもっと明確な一線が引かれているのであれば、オブザーバーとリーダーの関係と受け止めることも出来るが、にゃん作老人が入り込みすぎている。
もし、一線を引いたとしていも、芯に振るような役割を与えてしまい、台詞を与えてしまっていては同じコトになる可能性は十二分にあると想像できる。
また、せめてにゃん太郎のリーダー的な立場が確立されてからであれば、多少は違ってきたかもしれない。
が、にゃん太郎がリーダー的立場にあると思わせるようになるのは、にゃん作老人の登場とほぼ同時期ではないか?
にゃん太郎が餌探しに行っている間に、残った猫たち(既に仲間として行動していた十匹)は、にゃん太郎が戻ってくる前に自殺してしまおうとする。
(上の理由だけでは、理由に弱い気がしないでもないのだが)少なくとも私は、この段階では、まだ猫たちはにゃん太郎を仲間と認識していないように思われる。
流れの余所者的な感覚だったのではないか?
ま、余所者までは言い過ぎにしても、新しい仲間ではあってもリーダーではなかった。
個人的には、にゃん太郎が野良猫仲間の仲間と正式になったのは、ネコのそれぞれの事情を聞き、自分の事情を明らかにして以降だと踏んでいる。
そして、にゃん太郎にリーダー的役割を振り始めるのは、にゃん作老人を仲間達の元に連れてきて、大きな魚のいる湖目指し旅に出ようと旅に出るあたりからではないか?
で、ココから無理が生じてくる。
にゃん作老人を連れていってしまう為である。
本作品中で
……って、数字ネコ十一ぴきいましたよね? 欠番があって、にゃん作老人入れて十一だなんてオチなかったよな……。
あぁ。大丈夫でした。思わずパンフ確認しちゃったよ(笑)
そんなで、DC版では旅に出るのは十二匹であるのに、実際旅に出るのは十一ぴき。
ここで頭の中に? が飛び交う。
にゃん作老人の位置付けが分からなくなってしまうのである。
若い猫たちの道標的存在で、遠いところから彼らを見守るモノと思っていたのに何故か一緒に連れていってしまう。
で、彼が長老として君臨する形になってしまっている。
にゃん太郎は青年団の団長と云ったところか?
にゃん作老人を長老的存在とし、旅に連れていくことにしたのは、中尾隆聖・関俊彦の二本柱を立てたかったからだけではないのか? と思わざる得ない。
にゃん作老人のオリジナルでの位置を確認した今、その思いは一層強くなる。
また、にゃん作老人を連れて行くのなら、連れて行くなりにしっかりと本を書くべきだったのではないか?
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更されてしまっていたから、にゃん太郎の姿がぼやけ、にゃん作老人の存在に悩まされる羽目になったのではなかろうか?
この、『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』は幕切れの悪さにも作用してしまっているように思える。
DC版は決定版「十一ぴきのネコ」を踏襲しているようであるから、魚の毒は繁栄の裏に隠された黒い部分(或いは、繁栄の代償)の象徴である。
繁栄するには、綺麗事だけではすまない。
少々話が脱線するが、【ひろろ】から昨夜電話越しに興味深いことを聞いた。
井上ひさし氏は、『表裏源内蛙合戦』で平賀源内の死の後。
幕切れである歌を歌わせた。
それを要約すると。
綺麗に生きていきたいのなら、死。
上手に生きていたいのなら、綺麗に生きていくことを捨てろ。
決定版「十一ぴきのネコ」の結末によく似ていないか?
オリジナルでは、猫たちがネコの国を建国し、ネコの国に繁栄が訪れ、繁栄による毒で侵された魚を喰らい、その魚の持っている毒で死んでしまう。
これは、先程も書いたが『繁栄するには、綺麗事だけではすまない』というメッセージだと思われる。
と、すれば。
十一ぴきのネコが喰らったのは、繁栄の代償。
しかし、DC版の猫たちに繁栄の影はない。
強いて云えば、棚からぼた餅の代償か?
猫たちが捕らえ喰らった魚は毒で苦しみ、自殺したがっていた。
結果的には、魚の自殺幇助である。
生を求める魚を捕らえるよりは、死を臨む魚を捕らえる方が楽であろう。
楽をしてしまうと、自分も駄目になってしまいますよ。と云いたいのか?
ただ、この魚を捕らえる設定がオリジナルと同じであった場合、この説はかなり強引に思われる。
猫たちの死因が魚の毒によるモノではなく、魚の食べ過ぎであったとかであれば、『楽をしたことの代償』説をどうにか引っ張ってこれるか?
これも強引な気がしないでもないが(笑)
とにかく、DC版では「代償」の存在が消されているように思える。
代償の対象がないのだから、仕方がないか?
ここで、再び『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』の話に戻る。
(私は原作を読んではいないので、解説から内容を読み取るしかないのだが)原作は、魚を捕って腹を満たし、ネコの国を作って倖せとなりましたとさ。で終わるらしい。
決定版「十一ぴきのネコ」では、繁栄にはそれなりの代償があるのだと風刺して終わる。
ではDC版では?
『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』してしまっている為に、どっちつかずで終わる。
『仲間もでき、腹も満ちて倖せだ』のストレートなハッピー・エンド。
と。
『喰らった魚は毒に侵されてて、自分らもその毒で死んでしまいましたとさ』の喜劇(本来の井上版「十一ぴきのネコ」は社会風刺の効いた喜劇だと認識している)としての終わり。
この二つの異なる結末を、足して二で割ろうと(或いは、両方を追おうと)してしまったが為に、物語の方向を見失い結果として、中途半端な悲劇に仕上がってしまったかのように思えてならない。
この中途半端さを、『悲劇』にしてしまう理由が(再三書いてるが)幕切れの紙芝居である。
「これって、悲劇にだったのかっ!? 」と、叫ぶ要因になったのが元・サラリーマンの発した『毒』と云う単語と、「君が君の願う紙芝居のラストを書きなさい」的な紙芝居屋の言葉。
コレによって、「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」と云った印象を受けてしまう。
また、元・サラリーマンが猫たちを殺す原因となった『汚染』を人間の責任として書いてしまっているように思える。
実際、私は猫の死は人間の責任であるかのように思えた。
ココで猫が人間に対する恨み節を述べていたか? 述べてもいないのに、突然『毒』が出てくる理由がわからん。と書いているのが証拠である。
で、このまま行くと話が感想 其の参に戻ってしまうので、先行きます。
猫の死因を自らが招いた結果ではなく、第三者(人間)の手に因るものとしたから、風刺の効いた喜劇ではなく、『人間によって殺された、猫たちの悲劇』となってしまったのではないか?
また、ここで井上版「十一ぴきのネコ」が持つテーマさえも、すり替えが行われた気がしてならない。
紙芝居屋が男に白い画用紙を渡すことにより、
「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」
的な印象を受けると上で書いた。
この事によって、本来ならば「何かを得るというコトは、失うコトでもある」といった内容から、「可哀想な猫たちを増やさない為にも、環境問題に気を配りましょう」に突如としてすり替わっていく。
二重に、且つ強引に、主題をすり替えてしまうから、無理が生じてくるのも当然の結果だと思われる。
ここに生じた無理が、取って付けたような、居心地の悪さとなってしまうのではないか?
DC版の作りならば、無理に猫を殺ささずとも良かったのではないか?
原作を踏襲して、猫はお腹いっぱい。倖せいっぱいで暮らしましたとさ。
で、良かったのではないかと思う。
井上版を踏襲したいのであれば。
食べた魚は毒を持っていました。その毒で死んでしまうのですが、独りぼっちではなく、仲間と一緒に死ねたことは野良猫にとっては倖せだったのかも知れません。
といった方向に持っていけば良かったのではないだろうか?
猫の国の話を省いてしまっているのだから、魚の毒と汚染の関係も省いてしまい、たまたま毒を持っていた魚にしても不都合はないように思える。
『繁栄の代償』といった線は消えるが、『何かを得るというコトは、失うコトでもある』といった線は残していけると思うのだが。
幕開きの紙芝居がなければ、幕切れの紙芝居が必要なくなる。
幕切れの紙芝居がなければ、「「十一匹のネコ」は『汚染』によって(結果として)殺された猫たちの悲劇」というテーマのすり替えは起こらなかったのでは?
テーマのすり替えがなければ、ココまで不快感を感じるコトはなかったと思う。
結論。
紙芝居は要らない。
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけ変更はするな。
するなら、子供だましのような誤魔化しでなく、完成させるべき。
結局。
井上作品をやるなら、弄らずマンマで。
に辿り着く。
観劇から今日で3日目。
冷静になればなるほど、不快感が増して来るんです。
オリジナルの筋を知れば、知っただけ。
私はDCの「十一ぴきのネコ」をDC版と書いていますが、【ひろろ】は反対しています。
〜版とは、作品として完成してこそ使える言葉。
DCのは完成品とは思えない。
これに反論する言葉は、私にはありません。
同じように思うから。
私の頭を過ぎり、同様に【ひろろ】も浮かんだのは。
中尾隆聖・関俊彦人気に胡座をかいたか?
でした。
この作品の出来では、そう穿ちたくなる。
正直、DCとしての舞台はもういいかな? と思いました。
関さんの舞台は信頼の出来る劇団の客演だけの方がいいか? とか。
このクラスを見せられるのはちょっと勘弁だな。とも。
もし。
去年のラブラブ〜と今年のカリフォルニア〜を観ていなければ、DCの舞台は切ってしまったと思います。
内緒なんですが……今回の失敗の原因の一つに中尾隆聖・関俊彦の二本柱に頼りすぎたか? ってのも残ってます。
二本柱でいくなら、にゃん太郎を中尾隆聖。にゃん十一に関俊彦でいったらもう少し締まったかな?
とは、【ひろろ】の弁。
頑張りが空振りに終わっても、終わってもめげずに頑張る、にゃん太郎を可愛らしい空回り具合を期待できる隆聖さん。
結構、寂しン坊なのに虚勢を張っちゃう、にゃん十一を奥行き芝居を思いっ切り堪能できる関さん。
だそうで。
これは【ひろぽ】も観たいっ!!
ダラダラ書いてますが、最後にもう一言。
DCの「十一ぴきのネコ」にこれだけ不平不満を述べていながら、面白かったという感想も持っているのも本当です。
作品をぶつ切りにして、ストーリーを追わなければ面白かったんです。
必然的に歌・踊りのシーンが中心となってしまうんですが。
早い話が。
(当blogを読まれている方の多数が、ガンダムSEED DESTINYを知っているモノと想定して、話をしちゃいますが)
SEED DESTINY FINAL-PHASEを読んで頂けると分かり易いのですが、【ひろぽ】はSEED DESTINYを駄作としていません。
話の内容を捨てて、関さんの演られているレイ・ザ・バレルだけを追っていたからです。
えぇ。関レイさえよけりゃ合格だったんです。
それと同じで、ストーリーを捨ててしまえば楽しめました。
多少、関さんの芝居に物足りなさを感じることはあったモノの、観て良かったと思える程度には満足させて貰いました。
この作品なら全公演マチソワの長旅でも行くっ!! と云う発言は、この物語に関わりたいという思いからではなく単純にフォローに感動して自分もやりたいっ!! との思いからです。
以上、面白かったのは本当なんだよ〜と云う【ひろぽ】の自己弁護でした(笑)
「十一ぴきのネコ」感想です。
DC版「十一ぴきのネコ」の脚本に対する感想かな?
にゃん作老人の存在に違和感を感じ続けていた私は、オリジナルでの扱いを探しにネットを巡ってみました。
すると、簡単に答えが見つかりました。
オリジナルでは、にゃん作老人は湖の地図を渡すだけで旅には参加しないようです。
それをDC版では参加させてしまったから、しっくりこない感を覚えてしまった。
それだけでなく、にゃん太郎についても悪い方へ作用してしまったのではないか?
にゃん太郎の姿が見えてこなかった理由の一つとして、関俊彦の芝居が大人しかった所為ではないか? というのをあげています。
私は他に、にゃん作老人の存在感が引っ掛かっていたのですね。
作品中、にゃん十一がにゃん太郎のコトを「いつの間にか、リーダーのようになって」とにゃん太郎の立場を説明する場面があります。
確かに、リーダー扱いと云えばそうなんですが、その割りにリーダーとしての姿が弱く感じてしまっていたんです。
それを強く感じたのは、次の三箇所。
にゃん十一が魚に喰われ、助ける方法を考えているとき。
毒に苦しんでいる仲間達に飲ます水を探しに行って手ぶらで帰ってきたとき。
仲間達を看取るとき。
この三箇所で共通しているのが、にゃん作老人の存在。
中尾隆聖の存在感ではなくて、にゃん作老人の位置付けの問題。
にゃん十一を助ける方法を考えたのは、にゃん作老人。
苦しむ仲間を励ましていたのは、にゃん作老人。
最後の一人まで看取ったのは、にゃん作老人。
この三箇所において、にゃん太郎はNo.2になってしまっている。
名前数字組とにゃん作老人の間にもっと明確な一線が引かれているのであれば、オブザーバーとリーダーの関係と受け止めることも出来るが、にゃん作老人が入り込みすぎている。
もし、一線を引いたとしていも、芯に振るような役割を与えてしまい、台詞を与えてしまっていては同じコトになる可能性は十二分にあると想像できる。
また、せめてにゃん太郎のリーダー的な立場が確立されてからであれば、多少は違ってきたかもしれない。
が、にゃん太郎がリーダー的立場にあると思わせるようになるのは、にゃん作老人の登場とほぼ同時期ではないか?
にゃん太郎が餌探しに行っている間に、残った猫たち(既に仲間として行動していた十匹)は、にゃん太郎が戻ってくる前に自殺してしまおうとする。
(上の理由だけでは、理由に弱い気がしないでもないのだが)少なくとも私は、この段階では、まだ猫たちはにゃん太郎を仲間と認識していないように思われる。
流れの余所者的な感覚だったのではないか?
ま、余所者までは言い過ぎにしても、新しい仲間ではあってもリーダーではなかった。
個人的には、にゃん太郎が野良猫仲間の仲間と正式になったのは、ネコのそれぞれの事情を聞き、自分の事情を明らかにして以降だと踏んでいる。
そして、にゃん太郎にリーダー的役割を振り始めるのは、にゃん作老人を仲間達の元に連れてきて、大きな魚のいる湖目指し旅に出ようと旅に出るあたりからではないか?
で、ココから無理が生じてくる。
にゃん作老人を連れていってしまう為である。
本作品中で
十一ぴきのネコ 十一ぴきのネコと、歌っているのに旅に出るのは十二匹。
十一ぴきのネコが 旅に出た
DC版「十一ぴきのネコ」
しあわせなひととき〜ともだちとあえたから〜より抜粋
……って、数字ネコ十一ぴきいましたよね? 欠番があって、にゃん作老人入れて十一だなんてオチなかったよな……。
あぁ。大丈夫でした。思わずパンフ確認しちゃったよ(笑)
そんなで、DC版では旅に出るのは十二匹であるのに、実際旅に出るのは十一ぴき。
ここで頭の中に? が飛び交う。
にゃん作老人の位置付けが分からなくなってしまうのである。
若い猫たちの道標的存在で、遠いところから彼らを見守るモノと思っていたのに何故か一緒に連れていってしまう。
で、彼が長老として君臨する形になってしまっている。
にゃん太郎は青年団の団長と云ったところか?
にゃん作老人を長老的存在とし、旅に連れていくことにしたのは、中尾隆聖・関俊彦の二本柱を立てたかったからだけではないのか? と思わざる得ない。
にゃん作老人のオリジナルでの位置を確認した今、その思いは一層強くなる。
また、にゃん作老人を連れて行くのなら、連れて行くなりにしっかりと本を書くべきだったのではないか?
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更されてしまっていたから、にゃん太郎の姿がぼやけ、にゃん作老人の存在に悩まされる羽目になったのではなかろうか?
この、『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』は幕切れの悪さにも作用してしまっているように思える。
DC版は決定版「十一ぴきのネコ」を踏襲しているようであるから、魚の毒は繁栄の裏に隠された黒い部分(或いは、繁栄の代償)の象徴である。
繁栄するには、綺麗事だけではすまない。
少々話が脱線するが、【ひろろ】から昨夜電話越しに興味深いことを聞いた。
井上ひさし氏は、『表裏源内蛙合戦』で平賀源内の死の後。
幕切れである歌を歌わせた。
それを要約すると。
綺麗に生きていきたいのなら、死。
上手に生きていたいのなら、綺麗に生きていくことを捨てろ。
決定版「十一ぴきのネコ」の結末によく似ていないか?
オリジナルでは、猫たちがネコの国を建国し、ネコの国に繁栄が訪れ、繁栄による毒で侵された魚を喰らい、その魚の持っている毒で死んでしまう。
これは、先程も書いたが『繁栄するには、綺麗事だけではすまない』というメッセージだと思われる。
と、すれば。
十一ぴきのネコが喰らったのは、繁栄の代償。
しかし、DC版の猫たちに繁栄の影はない。
強いて云えば、棚からぼた餅の代償か?
猫たちが捕らえ喰らった魚は毒で苦しみ、自殺したがっていた。
結果的には、魚の自殺幇助である。
生を求める魚を捕らえるよりは、死を臨む魚を捕らえる方が楽であろう。
楽をしてしまうと、自分も駄目になってしまいますよ。と云いたいのか?
ただ、この魚を捕らえる設定がオリジナルと同じであった場合、この説はかなり強引に思われる。
猫たちの死因が魚の毒によるモノではなく、魚の食べ過ぎであったとかであれば、『楽をしたことの代償』説をどうにか引っ張ってこれるか?
これも強引な気がしないでもないが(笑)
とにかく、DC版では「代償」の存在が消されているように思える。
代償の対象がないのだから、仕方がないか?
ここで、再び『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』の話に戻る。
(私は原作を読んではいないので、解説から内容を読み取るしかないのだが)原作は、魚を捕って腹を満たし、ネコの国を作って倖せとなりましたとさ。で終わるらしい。
決定版「十一ぴきのネコ」では、繁栄にはそれなりの代償があるのだと風刺して終わる。
ではDC版では?
『中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけを変更』してしまっている為に、どっちつかずで終わる。
『仲間もでき、腹も満ちて倖せだ』のストレートなハッピー・エンド。
と。
『喰らった魚は毒に侵されてて、自分らもその毒で死んでしまいましたとさ』の喜劇(本来の井上版「十一ぴきのネコ」は社会風刺の効いた喜劇だと認識している)としての終わり。
この二つの異なる結末を、足して二で割ろうと(或いは、両方を追おうと)してしまったが為に、物語の方向を見失い結果として、中途半端な悲劇に仕上がってしまったかのように思えてならない。
この中途半端さを、『悲劇』にしてしまう理由が(再三書いてるが)幕切れの紙芝居である。
「これって、悲劇にだったのかっ!? 」と、叫ぶ要因になったのが元・サラリーマンの発した『毒』と云う単語と、「君が君の願う紙芝居のラストを書きなさい」的な紙芝居屋の言葉。
コレによって、「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」と云った印象を受けてしまう。
また、元・サラリーマンが猫たちを殺す原因となった『汚染』を人間の責任として書いてしまっているように思える。
実際、私は猫の死は人間の責任であるかのように思えた。
ココで猫が人間に対する恨み節を述べていたか? 述べてもいないのに、突然『毒』が出てくる理由がわからん。と書いているのが証拠である。
で、このまま行くと話が感想 其の参に戻ってしまうので、先行きます。
猫の死因を自らが招いた結果ではなく、第三者(人間)の手に因るものとしたから、風刺の効いた喜劇ではなく、『人間によって殺された、猫たちの悲劇』となってしまったのではないか?
また、ここで井上版「十一ぴきのネコ」が持つテーマさえも、すり替えが行われた気がしてならない。
紙芝居屋が男に白い画用紙を渡すことにより、
「紙芝居のラストは不幸な終わりであったけれど、努力いかんで幾らでも変えることが出来るんだよ? 」
的な印象を受けると上で書いた。
この事によって、本来ならば「何かを得るというコトは、失うコトでもある」といった内容から、「可哀想な猫たちを増やさない為にも、環境問題に気を配りましょう」に突如としてすり替わっていく。
二重に、且つ強引に、主題をすり替えてしまうから、無理が生じてくるのも当然の結果だと思われる。
ここに生じた無理が、取って付けたような、居心地の悪さとなってしまうのではないか?
DC版の作りならば、無理に猫を殺ささずとも良かったのではないか?
原作を踏襲して、猫はお腹いっぱい。倖せいっぱいで暮らしましたとさ。
で、良かったのではないかと思う。
井上版を踏襲したいのであれば。
食べた魚は毒を持っていました。その毒で死んでしまうのですが、独りぼっちではなく、仲間と一緒に死ねたことは野良猫にとっては倖せだったのかも知れません。
といった方向に持っていけば良かったのではないだろうか?
猫の国の話を省いてしまっているのだから、魚の毒と汚染の関係も省いてしまい、たまたま毒を持っていた魚にしても不都合はないように思える。
『繁栄の代償』といった線は消えるが、『何かを得るというコトは、失うコトでもある』といった線は残していけると思うのだが。
幕開きの紙芝居がなければ、幕切れの紙芝居が必要なくなる。
幕切れの紙芝居がなければ、「「十一匹のネコ」は『汚染』によって(結果として)殺された猫たちの悲劇」というテーマのすり替えは起こらなかったのでは?
テーマのすり替えがなければ、ココまで不快感を感じるコトはなかったと思う。
結論。
紙芝居は要らない。
中途半端に劇団側にとって都合の良い所だけ変更はするな。
するなら、子供だましのような誤魔化しでなく、完成させるべき。
結局。
井上作品をやるなら、弄らずマンマで。
に辿り着く。
観劇から今日で3日目。
冷静になればなるほど、不快感が増して来るんです。
オリジナルの筋を知れば、知っただけ。
私はDCの「十一ぴきのネコ」をDC版と書いていますが、【ひろろ】は反対しています。
〜版とは、作品として完成してこそ使える言葉。
DCのは完成品とは思えない。
これに反論する言葉は、私にはありません。
同じように思うから。
私の頭を過ぎり、同様に【ひろろ】も浮かんだのは。
中尾隆聖・関俊彦人気に胡座をかいたか?
でした。
この作品の出来では、そう穿ちたくなる。
正直、DCとしての舞台はもういいかな? と思いました。
関さんの舞台は信頼の出来る劇団の客演だけの方がいいか? とか。
このクラスを見せられるのはちょっと勘弁だな。とも。
もし。
去年のラブラブ〜と今年のカリフォルニア〜を観ていなければ、DCの舞台は切ってしまったと思います。
内緒なんですが……今回の失敗の原因の一つに中尾隆聖・関俊彦の二本柱に頼りすぎたか? ってのも残ってます。
二本柱でいくなら、にゃん太郎を中尾隆聖。にゃん十一に関俊彦でいったらもう少し締まったかな?
とは、【ひろろ】の弁。
頑張りが空振りに終わっても、終わってもめげずに頑張る、にゃん太郎を可愛らしい空回り具合を期待できる隆聖さん。
結構、寂しン坊なのに虚勢を張っちゃう、にゃん十一を奥行き芝居を思いっ切り堪能できる関さん。
だそうで。
これは【ひろぽ】も観たいっ!!
ダラダラ書いてますが、最後にもう一言。
DCの「十一ぴきのネコ」にこれだけ不平不満を述べていながら、面白かったという感想も持っているのも本当です。
作品をぶつ切りにして、ストーリーを追わなければ面白かったんです。
必然的に歌・踊りのシーンが中心となってしまうんですが。
早い話が。
(当blogを読まれている方の多数が、ガンダムSEED DESTINYを知っているモノと想定して、話をしちゃいますが)
SEED DESTINY FINAL-PHASEを読んで頂けると分かり易いのですが、【ひろぽ】はSEED DESTINYを駄作としていません。
話の内容を捨てて、関さんの演られているレイ・ザ・バレルだけを追っていたからです。
えぇ。関レイさえよけりゃ合格だったんです。
それと同じで、ストーリーを捨ててしまえば楽しめました。
多少、関さんの芝居に物足りなさを感じることはあったモノの、観て良かったと思える程度には満足させて貰いました。
この作品なら全公演マチソワの長旅でも行くっ!! と云う発言は、この物語に関わりたいという思いからではなく単純にフォローに感動して自分もやりたいっ!! との思いからです。
以上、面白かったのは本当なんだよ〜と云う【ひろぽ】の自己弁護でした(笑)
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